out of control  

  


   26

 岩の隙間から落ちてくる細い滝の水が、身体の芯まで俺を洗い流す。
 谷底の水は氷のように冷てえ。
 殺し合いに行くんじゃねえからな。頭を冷やしたかったんだ。

「……ふう」

 水場から上がって獣のように雫を払うと、俺は自分の身体から立ち上る水蒸気を眺めて白い息をついた。
 さすがに濡れたまま服を着るわけにゃ行かねえからな。持参した手ぬぐいでざっと身体を拭いて、その辺りに脱ぎ散らかした服を着てから羽ばたく。
 この年最後になるだろうといわれる大雪が止んだデインの地はどこまでも白く、冷ややかに静まり返っていた。雪ってのは音を吸収するらしいから、それもあるだろうが、淋しい光景だぜ。
 こうして見ると、この国にも春が来るなんてまるで嘘のようだ。何もかもが白と灰色に覆われていて、命の気配がない。
 こんな風に俺が思うのは緑を見慣れてるからだろうな。セリノスはもちろん、フェニキスもガリアも一年中緑がなくなることはねえ。思えば恵まれた環境に暮らしていたものだ。

「……ん?」

 しばらくそうしてなにもかもが白く覆われたネヴァサを眺めていたんだが、ふと城壁の方から俺を呼ぶか細い声が聞こえて視線を巡らせる。
 誰かと思えば昨夜やってきた大食漢の大賢者、イレースだ。

「気がついたのか?」
「はい…。ご心配おかけしました…」
「まだ顔色が悪いぜ。飯は?」
「今朝は…三人分しか……。でも、貧しい国ですから…大丈夫…。がまんします……」

 そう言いながらもまだ青い顔をしてふらつくイレースの肩を抱いて横に下りると、俺は懐から麻の小袋を取り出しながら言った。
 イレースには大きな借りができたからな。

「食えよ。干し杏と葡萄だ」
「まあ…でもこれから出発するんでしょう……?」
「俺の飯はどうにでもなる。腹が減ったらそこまで弱るあんたが、昨夜は飲まず食わずでヤナフを助けてくれた。あんたにはどんなに感謝しても足りねえ」
「鳥翼王さま……そんなの、当たり前ですよ。ヤナフさんには私も助けていただいたことがありますから…」

 昨夜、キルロイとセネリオ、ペレアスと巫女の四人がかりで交代しながら杖を使ったが、ヤナフの傷は余りにも重く、ついに心臓が止まっちまったんだ。
 肋骨をへし折る勢いで外から心臓を強引に動かしてやれば、助かる見込みがないわけじゃねえ。だがもうヤナフの骨はあちこち折れていて、そうすることで折れた骨が内臓のどこかに刺さって逆にとどめになりかねない状況になっちまっていた。
 ――お別れだ。
 覚悟を決めなきゃならねえ。
 なにもできずにただウルキと共に名を呼ぶことしかできなくなったその時、イレースが来てくれたんだ。
 そして、思いがけねえ方法でヤナフの心臓を叩き起こしてくれた。

「しかし、雷魔法にあんな使い方があるとはな」
「はい…。雷魔法に精通した魔道士にしか使えない方法ですけど…上手くいって良かったです…」

 状況を見るや、俺とウルキを風魔法でふっ飛ばしてどかせ、ヤナフの心臓に雷魔法の初級、サンダーを叩き込んだんだ。
 なんでも人には誰でも気というか魔力の流れってのがあって、その流れに逆らわねえように、殺さない程度のぎりぎりで心臓に叩き込む技術が必要らしい。
 もちろん魔力も高くなけりゃならねえし、高度な雷魔法を使いこなせる腕が必要だ。セネリオは自分には出来ないと珍しく舌を巻いたし、イレースほどじゃなくても雷魔法が得意なペレアスは興奮した様子でやり方をイレースに訊いていた。

「今回のことが終ったら、セリノスに遊びに来てくれ。礼になるかどうかはわからんが、たっぷりと美味いものを用意してもてなすからな」
「はい。うふふ…楽しみにしてます」
「おう」
「ティアマトさんとオスカーさんは…タウロニオさんの代わりに近くの村へ警邏に行かれました。また賊らしき人たちが近くの村に向かってるって聞いたからって…」
「そうか。ティアマトは昨日着いたばかりなのに忙しいな」

 優秀な騎兵だからな。本当はこの二人もいっしょに連れて行きたかったんだが、そんな事情ならしょうがねえ。

「はい…。皆さん…お見送りをしようと集まっていますよ。私は、ペレアスさまといっしょにお待ちしていますね…」
「ああ、ヤナフを頼む」
「はい…」

 ヤナフの容態は安定したわけじゃねえが、あとはあいつの体力を信じてこの二人に託すしかない。
 か細く微笑んだイレースの薄い肩を叩いて飛び、ヤナフが寝かされている客間のテラスに下りるとウルキが出てきた。

「王……」
「なんだ、出発前におまえらの顔を見に来ただけだぜ。寝てりゃいいのによ」

 いつものように腕を組んで笑ったが、憔悴した様子のウルキはゆるゆると首を振ってため息をつき、ペレアスに付き添われて眠る相棒をちらりと見て答える。

「とても…寝ていられない。やっぱり私も行こうと思う…」
「その傷でか? 足手まといはいらねえぞ」
「だが…鴉王が正気に返った時…もしもヤナフに傷を負わせたことを覚えていたら……」

 ったく、優しいヤツだぜ。
 あいつが傷つくと思ったんだな。

「事実だ。しょうがねえ」

 泣こうが喚こうが、引きずって帰る。
 言外にその意味を込めて組んだ腕をほどくと、俺は寝台に横たわったまま、微動だにしねえヤナフをちらりと見て扉を開けた。

「あ…」
「よう。おまえにも世話を掛けるな」
「いえ、そんな。僕でお力になれることがあるなら、なんでもさせていただきたいと思っています」

 寝台の脇の椅子から立ち上がったペレアスが穏やかな笑顔を浮かべる。こいつも杖を使うのが得意で、杖の魔力を引き出すことに関してはあのセネリオよりも上手いらしいぜ。大したもんだ。

「ヤナフ殿の翼の傷についてなんですが、勝手とは思ったのですがラグズ専門の医師を呼び寄せました」
「本当にいたのか!?」

 いや、驚いたぜ。
 トパックと二人でその話をしていたのは知っていたが、ベオクの中にラグズを診る医者がいるなんて信じられねえ。眉唾だと思っていたからな。

「はい。もちろん鳥翼族の専門家のように頼れるかどうかはわかりませんが、ハールに書状を託けました」
「いや、鷹と鴉も呼びはしたが、俺たちには『医者』ってのがいねえ。もちろん、戦士なら応急処置はできて当たり前だし、経験を積んだ者がそういった役回りになることはあるがな。ネサラにもよく言われていたんだ。飛ぶことと戦うことだけが能じゃねえ。もっとこの辺りの仕事が出来る者を育てなきゃならないってな」
「鴉王が……そうですか」
「ああ」

 あいつはいつも俺の先を見ていた。ラグズである俺たちがこれからどう立ち回らなきゃならねえのか、模索していたんだ。
 俺たちは寿命が長い割には今が良けりゃそれでいいって感覚があるからな。このままじゃいけねえって危機感を覚えてたんだろうよ。
 もっと真剣に聞いときゃよかった。今になって反省するぜ。

「鳥翼王……」
「ん?」

 背中の傷と折れた翼の負担にならねえよう、うつぶせに寝かせられたヤナフの腰に薄い毛布を引き上げて首の後ろで熱を測る。
 まだ高いな。呼吸も浅い。顔色は少しましになったが、それでもいつ急変するか油断できねえ状態だ。

「僕が口を出すようなことではないことはわかっています。でも…どうか鴉王を」
「………」
「鴉王を、連れ戻してください。正直に申し上げます。僕はラグズ差別者でした。でも実際にあなた方と交流するようになって、わかりました。それがとても愚かなことだったと。僕はトパックの大切なムワリムがイズカになりそこないの薬を飲まされた時、イズカを処分しなかった。悪いのは明らかにイズカだったのに。イズカの教えを失うことの方が恐かったのはもちろん、そんなに重大な出来事だと受け止めていなかったからです。でも今は……」

 一度俯いたペレアスが、まっすぐに顔を上げて続ける。
 俺の腕を掴んだ手が熱かった。こいつ自身も熱を出すほど体力を消耗したからだ。

「鴉王を失うのは恐ろしいことです。今、彼がいなくなればベオクとラグズの関係はまた元のように悪化してしまう。なにより、僕はもっと彼に教わりたい。話がしたい。ですから、どうかお願いします」
「俺だってあいつともっと話がしてえよ。おまえの気持ちはわかった。きっと連れ戻すさ」
「はい…! 信じています」

 青い巻き毛を撫でて頷いてやると、ペレアスはほっとしたように笑ってよろよろと元のように腰を下ろした。

「王、書類をお持ちいたしました。…これは失礼を。鳥翼王がおいででしたか」
「あぁ、挨拶はいい。俺はもう出るからな」
「は……。どうぞお気をつけて。共に戦えぬのが残念でなりませぬ。ご武運を心より祈っております」
「俺もだ。ありがとうよ。じゃあ、またな」

 しかしヤナフに付きっ切りで政務の方は大丈夫か心配だったんだが、ここで仕事もしてるんだな。タウロニオが書類を持って入ってきたから、俺はさっさと退散することにした。
 もちろん、ウルキは置いて行くつもりだった。こいつの傷も浅くはねえからな。
 だが……。

「いいのか?」

 迷わず俺のあとをついてテラスに出たウルキに、俺は低い声で問いかける。もしもの時に間に合わねえぞという意味でだ。
 ヤナフとの付き合いは時間だけなら俺の方が長いが、特殊な能力を持つ者同士、ウルキの方が俺よりもずっと深い関係だからな。

「自分が王のそばにいられないからこそ…ヤナフは私が王の傍らにいることを望むでしょう…」
「そうか。なら、付いて来い」
「はい」

 一度決めたなら、もう振り向きはしねえ。俺はウルキを連れて皆が集まってるという城門に急いだ。
 降りてきた俺に真っ先に駆け寄ってきたのはデインの神官、ローラだ。

「鳥翼王さま、ご友人の様子はいかがでしたか?」
「悪くはねえな。まだまだ油断できねえ状態だが、希望が出てきたってとこだ」
「まあ、それは良かった…! 女神よ、感謝いたします。私もおそばで杖を使わせていただけたらと思ったのですが……」
「ああ、気にすんな。戦いで受けた傷でどうなろうと、それは鷹の戦士なら受け入れるべきものだ。まして今は一人でも光魔法か炎魔法の使い手が欲しい時なのに、イレースが残ってくれている。ミストもな。充分だ」

 そう答えると、ローラは心配そうにそばに来たデインの黒い槍使い、ブラッドに肩を抱かれながら微笑む。

「ヤナフさんは優しい方です。あの戦いの中、敵として戦っている時だって優しかった」
「鳥翼王、ローラが俺に覆いかぶさって庇ってくれたことがあるんですが…」
「はい。あの時は必死でしたから。ヤナフさんは無抵抗な者を手に掛けたりはしないと助けてくださいました。私とブラッドだけではありません。エディたちも戦場で…敵同士だったのに、助けていただいたことがあります」

 ………戦士としちゃ、当たり前のことなんだがな。エディやレオナルドは今でこそそこそこの腕に育ったが、初めて戦った時には足も武器を握る手も震えていた。
 俺だってガキを殺したりするのは気分が悪い。俺たちがデイン軍と対峙した時には、決まってこのブラッドと、ノイスという斧使いがガキどもを守るように立っていた。

「ですから、この戦いが終ったら、私にもヤナフさんを治すお手伝いをさせてくださいね。お願いします」
「もちろんだ。ありがとうよ」

 礼を言うと、二人は顔を見合わせてブラッドは照れ臭そうに、ローラはうれしそうに笑って頷いた。

「鳥翼王、ウルキも気をつけて行って来いよ」
「鳥翼王さま、ウルキさん……」

 次はボーレとミストだ。ボーレは殊更明るい声で、ミストは大きな目に今にもこぼれそうなぐらい涙をためて俺の手を握る。
 若い娘の手だが、杖だけじゃねえ。剣を握る小さな手は固い。その手の温もりから言葉にできない気持ちが伝わって、俺の胸まで温かくなった。

「ボーレ…行って来る」
「ヤナフさんがやられたからってダチの仇を討つ…ってわけにゃ行かねえよな。今回はさ。でも、鴉王は強い。油断すんなよ」
「わかっている。私たちが行けばこの城は手薄になる。だから…」
「おう! あんたのいねえ間は、俺がここを守るさ。だから心配すんな!」
「頼む」

 力強くウルキの肩を叩いたボーレの真剣な視線が俺を見上げて、俺は小さく頷くことで応えた。わかってるさ。ウルキだけじゃねえ。俺が守る。

「ティバーン様、ウルキさん。ヤナフさんの具合は大丈夫でしたか?」

 キルロイも心配そうにこっちに来た。キルロイはヤナフと俺の次に親しいダチだ。
 ヤナフが見たらきっと喜ぶだろうに、意識が戻ってねえのが残念だぜ。

「まあな。あとはあいつの体力次第だ。それより今回は無理をさせちまうな」
「私はおまえも心配だ。大丈夫か? 昨夜は…ほとんど眠れなかっただろう?」

 心配そうに言うウルキに首を横に振ると、キルロイは照れくさそうに笑って持参した杖の宝珠を確かめた。
 俺にはまったくわからねえが、武器なんかと同じで回復の杖も使える回数が決まってるそうだ。使いすぎると宝珠が割れるらしい。

「鳥翼王、すまない。遅くなった」
「なんだ、巫女が先発で出たってのに、おまえがまだ残ってるってのは珍しいな」

 そこに駆け込んできたのはサザだった。俺の覚えている限り、乳離れしてねえ赤子みてえに巫女のそばをちょろちょろしてたのに、どうしたんだ?

「ミカヤは…アイク団長といっしょだから心配ない。それより、いっしょに戦うならどうしてもそばについていたい人がいるから」
「あ?」

 いよいよ惚れた女でもできたかと思ったら、サザのきつい視線を辿った先にいたのはなんとフォルカだ。
 木の陰に立っていたとはいえ、あいつの気配の消し方は見事なんてもんじゃねえな。獲物を狙う猫よりも上手いんじゃねえか?

「おまえまでいっしょに行くってか?」
「…………」
「勝手について来るんだ。おまえの主人に感謝はしねえぜ」

 黙って出てきたフォルカを挑発するように言っても、乗りはしねえな。当然だ。
 赤い目をちらりと俺に向けることもなく、フォルカは先に衛兵が開いた城門の外へ歩き出した。

「あ…! ま、待てよ!」

 まさか歩いて先発したアイクたちに追いつくつもりかと思ったら、驚いた。懐からなにか取り出したフォルカの背中が霞みのように消え、仰天したサザが捕まえようとした時にはもう影も残っちゃいねえ。
 やれやれ、そばにつく以前なんじゃねえか? これは。

「き、消えた……」
「今のはリワープの杖と同じ力ですね。転移の粉…と呼ばれるものではないでしょうか?」
「キルロイ、そうなのか?」
「はい。確かそうだったはずです」

 転移の粉、か。なるほど。そりゃあ霞のように現れたり消えたりできるはずだな。

「では、鳥翼王さま…私たちも参ります」
「おまえたちはリワープか?」
「はい。キルロイさんがいっしょに飛んでくださいますから」

 確かに、いくらキルロイが非力でもローラぐらい小柄な女なら苦労はしねえな。
 それぞれ丁寧に見送りの仲間に頭を下げた二人の姿が消え、俺は膨れっ面のサザの頭に手を乗せた。

「おとなしく俺に乗るか?」
「……頼みます」

 とことん嫌がられてるみてえだが、ウルキの傷じゃ人を乗せて飛ぶことは難しい。そこは辛抱してもらうほかねえな。

「鳥翼王! ウルキ! 気をつけて行けよ!」
「わたし、美味しいごはんを作って待ってますね…!」
「鳥翼王、ローラを…みんなを頼みます」

 さあ、出発だ。口々に見送りの言葉を掛けてくるボーレたちに頷くと、俺は化身して背中に恐々とサザが乗るのを確認してから、ゆっくりと羽ばたいた。ウルキも続く。

「ティバーン様! ウルキさん、気をつけてね!」
「鳥翼王、ウルキさんもサザも怪我すんなよ!」
「僕たち、みんなの無事を祈ってますから!」

 城壁の上から声を掛けてきたのはヨファとエディ、レオナルドのガキども三人組だ。子どもとはいえ、三人とも銀製の武器を使うだけの腕は持ってる。
 それでも残していくと決めたのはアイクだった。
 今度の戦いは今までとは違う。気持ちの上でも少しの迷いが死を招くんだ。これは当然の配慮だな。
 応える代わりに三人の頭上を旋回して高く鳴き、俺は昨日の内に出発したアイクたちのあとを追った。
 ベオクの足だ。一日遅れの出発だが、俺たちなら夜までには充分追いつける。
 やけに緊張したサザの様子を気に掛けながら風に乗って、ちらつく雪とようやく顔を出した太陽に照らされた地表を見下ろす。空に上がって少しは気分が変わったんだろうよ。いっぱいに翼を広げて俺の少し上を飛ぶウルキの影が見えた。
 多少傷が痛んでも鷹の民だ。空にいればほっとするもんさ。

「寒いか?」
「少し……。でも、平気だ」

 なるべく風は避けさせてやりてえが、俺自身が飛んでるんだからどうしようもねえ。分厚い外套を被ったサザの声は、まったく平気そうじゃなかった。
 風を通しにくい目の詰まった服や雨避け用に蝋で加工した外套に包まっていても、寒いのはしょうがねえ。夏でも長い時間風に当たったら風邪を引くほど、ベオクの身体は弱い。

「これ以上ゆっくり飛べねえんだ。辛抱しろよ。もう少ししたら休憩を取ってやる」
「いい。必要ない」

 強がりやがって。……昼を回るころにはどこかに降りてやらなけりゃいけねえだろうな。
 ふと、俺のすぐ横をウルキが急降下してサザが「あ」と身を乗り出す。

「心配いらねえ」
「でも…!」

 あいつは怪我をしてるからな。気を失って落ちたとでも思ったようだが、もちろん違うさ。
 勢い良く降りてまた上がってきたウルキの鉤爪は、鴨を掴んでいた。脂が乗ってそうな良い鴨だ。昼飯用に狩ったんだな。

「すごい。あんなに簡単に……」
「簡単そうに見えるだろうが、鍛錬のたまものだぜ。猟師だって最初は素人だろうが?」
「……そうだな。レオナルドも狩りができるようになるまでにはかなり掛かっていた」
「そういうことだ。動物はベオクよりよっぽど感覚が鋭い。掴まってろ。風の途を避けるぜ」

 サザがしがみつくのを待って身体を傾けると、広げた翼の下から上る風が俺の身体を緩やかに押し流す。このまま滑ってもう少し行ったところで舞い上がると気持ち良いんだが、サザが酔っちまうかも知れねえからな。
 動くときはなるべく大きな動きになるように心がけてしばらく飛んで食事休憩を取り、また出発した。
 降りてサザの顔を見たときに気がついたのは、思いつめたような表情だ。
 ……なにか悩みがあるようだな。
 話を聞いてやりたい気もするが、俺の前じゃ身構えた部分がある。素直には話さんだろう。
 なにより今の俺自身、誰かの悩みを受け止める余裕があるかどうか怪しい。
 ―――飛ぶごとに、ネサラに近づいている。気が逸る一方で、このまま何事もなくあいつが帰って来てくれたらいい。そんな甘ったれた気持ちが俺の中にあるのも事実で、そんな自分に驚きもした。
 結局、信じたくねえんだ。俺は。
 鷹の戦士のあいつらを、ウルキを、ヤナフを傷つけたのがなりそこないになっちまったネサラだってことを。
 二十年だぞ? 二十年、血の誓約の重みと屈辱に耐えて民を守ったあいつが簡単にそんなもんになっちまうなんて信じたくなかった。
 おまえの心がそんなに弱いはずねえだろう!?
 最初は信じられなかった。ようやく事態が飲み込めて真っ先に沸いたのは、激しい怒りだったからな。

「……王」

 そして日が暮れる前に、葉の落ちた森の中に焚き火の光を見つけた。やっと追いついたようだな。

「ティバーン…! ウルキも来てくれたのか」
「ああ。どうしても来るって聞かなくてな。サザ、大丈夫か?」
「……あぁ」

 迎えに出てきたのはリュシオンだ。化身を解きながら片腕に抱えてやろうとすると、サザは器用に逃げて地上に飛び降りた。もちろん落ちても死なねえぐらいの高さまでは降りてるんだが、さすがは密偵を勤めるだけあって身軽だな。
 そんなに急いでどこへ行くのかと思えば、やっぱり巫女のところか。だが二言三言交わしたあとはトパックになにか言われながらまたフォルカの方へ行った。
 ……あんな物騒な男に付きまとうとはな。ガキってのはよくわからん。

「ティバーン? あなたが降りないとウルキも降りませんよ」
「ん? なんだよ。そういうとこはベオクのようだな。ったく」

 首を傾げて眺めているとリュシオンに言われた。確かにウルキは俺の後ろだ。
 顔色も悪い。……しょうがねえ意地っ張りだぜ。

「ティバーン様、ウルキさんも無事で良かった!」

 キルロイも心配していたからな。気を利かせてこちらを見上げるキルロイのそばへ降りると、弱った様子のウルキを見てすぐに回復の杖を使ってくれた。これでウルキは心配いらねえな。

「おお、来たな!」
「待ちかねましたよ。ご無事で良かったです」
「鳥翼王〜! サザがひどいんだぜ!」

 俺が歩き出す前に声を掛けてきたのはスクリミルとライだった。スクリミルはサザに追っ払われて膨れっ面になったトパックを小脇に抱えてどっかりと座り、寄って来たライが俺の身体に残る雪や雫を払う。

「おまえたちもな」
「この顔ぶれですからねえ。ミカヤはローラといっしょにあちらのテントにいますよ」
「そうか。なら、挨拶はあとでいいな。トパック、そう膨れんな。サザならまたあとでいくらでも相手してくれるさ」
「ちぇッ、サザはおれから行かなくちゃ口も利かねえよ」

 ガキ同士の友情ってのも大変だな。素直に拗ねたトパックに笑ったスクリミルががしがしトパックの頭を撫でる。仲の良い二人の様子にちょっと笑って、俺はちらりと巫女のいるテントを見た。
 さすがに娘二人のテントにずかずか踏み込むような真似はできねえし、特に話さなきゃならねえようなこともねえな。
 そう考えて先にアイクのそばに行くと、焚き火の傍らに座っていたシノンが水袋を掴んで立ち上がった。声を掛ける隙もねえ。

「鳥翼王」
「よう。待たせたな」
「いや…腹は減ってないか? ローラが肉を焼いておいてくれてる。良ければどうだ?」
「せっかくだ。有難くもらうぜ」
「ああ。あんたが来る前に鷹の戦士が知らせにきてくれた。ジルも鷺王たちを連れて渓谷辺りで落ち合えそうだ」
「そうか」

 俺に挨拶もしねえのを気にしたんだろう。ガトリーがシノンの背中と俺を見比べて情けない表情でぺこりと会釈し、シノンのあとを追った。
 やれやれ、嫌われたもんだ。………当たり前だな。
 あいつがネサラの血と羽にまみれた寝台を片付けてくれたんだ。こんな真似をする男はクソだ。そう思われても当然だし、しょうがねえ。

「ティバーン……シノンは優しい男なんです」
「わかってる。心配すんな」

 二人の背中を見送っていると、そっと寄って来たリュシオンが心配そうに声を掛けてきた。

「鳥翼王?」

 アイクもだ。
 いけねえ、心配させちまったな。

「なんでもねえ」
「ああ。その…大丈夫か?」
「なにがだ?」

 アイクからよく焼けたウサギの腿肉を受け取ると、珍しく慎重な様子でアイクに訊かれた。
 意外だったんだろう。それまで黙ってアイクの隣で古い本を開いていたセネリオの視線も上がる。

「これからが本番なのに、あんたはもう疲れているみたいだ」

 相変わらず遠慮のねえヤツだな。ライが心配そうにそんなアイクと俺の顔を見比べるが、俺はなにも言わずにただ肉を食いちぎった。
 半分ほど食ってから視線をそらさずに俺を見ていたアイクに言う。

「心配ねえ。ネサラと対峙したら、鳥翼同士だ。俺しかあいつを抑えられねえだろうが」

 ウルキは怪我を負ってるし、ハールとジルも合流予定ではいるが、ネサラと戦り合うのは難しいだろう。なにより、ハールはまだしも、ジルは気の優しい娘だ。一度は仲間として戦った相手に切っ先を向けさせるような真似はさせたくねえ。

「……やっぱり、そうなるのか」
「恐らくな。いや、そうしなきゃならねえ」
「鳥翼王。ほどほどの高度まで誘い出してくれれば、僕が風魔法を使いますよ」

 大きなため息をついたアイクの手にライが水筒を差し出すと、セネリオがぱたりと古い本を閉じて言いやがった。
 表情はいつもと変わらねえが、紅い視線に宿る光は強い。

「つまり、鴉王が呪歌を受け入れる程度までは弱らせなくてはならないのでしょう。レクスカリバーは危険でしょうが、僕なら鴉王の状況に応じた風魔法を使いわけられます」
「でも、危険ではないのか? もしも、それでネサラが……!」
「リュシオン王子、勘違いされては困ります。僕たちの一番の目的は魔物となった者たちを鎮めること。そしてデインの民を守ることです。もしも鴉王が障害として立ちはだかるようなら、僕は彼を排除しなくてはなりません」

 慌てたリュシオンに答えたセネリオの言葉は厳しいものだ。だが、その通りだな。
 顔色を変えたリュシオンもわかってるんだろう。開きかけた口を一度閉じ、深い息をついて言った。

「そうだな。……その通りだ。だからこそ、ネサラは必ず私が助ける」

 炎を見つめるリュシオンの目に宿る金色の光は、まるで鬼火のように激しい。
 昔なら俺に縋ったはずだ。だが、鷺であるリュシオンがここまで強くなった。
 ネサラ……おまえに見せてやりたいぜ。リュシオンが強くなる度に淋しそうにこいつの背中を見守っていたおまえだ。
 決して喜びはしねえだろうが、あいつはわかってるのかね?
 こいつが強くなるきっかけが、いつもネサラのためだったことを。

「ティバーン?」
「巫女が出てきた。挨拶してくるぜ」

 なんだかな。胸が熱くなっちまったよ。
 テントから出てきた巫女が緊張した面持ちで俺を見る。付き添うローラは心配そうにそんな巫女と俺を見比べた。

「覚悟はできたか?」
「はい。わたしが…デインの将として自分でやったことの結果を、初めてこの目で見ることになるんですね」
「そうだ」
「………時間は戻せません。大丈夫です。鳥翼王さまも大変な思いをなさっているのに、わたしのことまで気にかけてくださって…ありがとうございます」
「なに、おまえのことは行きがかり上ってとこだ。気にするな」

 力なく笑った巫女の細い肩を軽く叩いて励ますと、俺はそっと会釈するローラに頷き、頭を掻きながらもう一度火のそばに戻った。
 スクリミルはあのままトパックを連れて寝てくれるだろうから、火の番の頭数には入れずに俺とアイクたちでやればいいだろう。そろそろリュシオンを寝かせなきゃならねえからな。

「ティバーン? どうしましたか?」
「おまえはそろそろ寝ろ。ガキどもも寝たし、明け方火の番をするぞ」
「あ…そうですね。わかりました」

 ライがいそいそと持ってきた厚手の外套を敷いた上にリュシオンを片腕に抱えて俺も転がると、アイクが頷いてライに目配せする。
 ライとアイクが組むんだな。セネリオも「ではアイク、お先に失礼します」と言って焚き火の向こうに転がった。
 気を張ってるからってのもあるだろう。リュシオンはなかなか寝付けねえみたいだったが、俺が先に目を閉じると諦めたようにおとなしくなった。
 やっぱり鷺の身体だからな。どんなに気を張っていても疲れは堪える。そうしているうちにリュシオンは本格的に眠りに落ちた。
 長い夜だった。
 ここから問題の渓谷までの距離は半日分もない。夜中に一度ウルキが音を聴きに飛んだが、不自然な音はなにも拾えなかったと降りてきた。
 近くの村でも襲うのかと思ったが、どうやらそれもなしか……。どうしても沈黙の理由を考えちまう。
 ネサラの中に、もしかしたら正気の部分が残ってるんじゃないかとな。
 しばらくしてアイクとライが横になり、少し離れた場所にいたガトリーとシノンが来た。もちろん、火の番の交代だ。
 リュシオンは……良く寝てるな。
 ゆっくりと起き上がると、目が合ったガトリーが人懐こい笑顔で会釈して茶を手渡してくれる。
 シノンは相変わらず沈黙したままだが、今はそれほど固い拒絶の意志は感じなかった。

「………バルフレチェか?」
「ああ」

 返事を期待したわけじゃねえ。
 ただ、背負っていた荷袋の中から取り出して組み立てた美しい弓に見覚えがあったから尋ねたんだが、やっぱりそうか。
 こういうもの価値がまったくわからねえ俺の目にも、その道を極めた職人の手で意匠を凝らしたことが見てとれる逸品だ。
 神経質そうな指先が弦を弾くと、かすかにだがまるで竪琴のような音が響いた。

「アイクのラグネルはベグニオンに返したと聞いたが、それはおまえが持っていたんだな」
「これも返すつもりでいたさ。黒竜王や女神がいなくなった今、こんなもんを使わなきゃいけねえような相手なんざまずいねえからな。けど、この弓は気難しくてよ。今のところオレしか使い手がいねえんだ」

 それはそうだろうな。優れた武器ってのは使い手を選ぶもんだと聞く。

「鳥翼王。どいつもこいつも説得だなんだと甘いことを言ってるが、なりそこないになるってのはそんなに甘いモンじゃねえ。ほかに方法がなけりゃ、オレがやる」
「その弓なら、俺でも一撃で墜とせるだろうな」
「当たればな。……あんたがおとなしくオレに射られるとは思えねえ」

 俺たちの会話に不穏なものを感じたのか、ガトリーが心配そうに俺とシノンの顔色を伺うが、べつに揉める気はねえよ。
 優しい男、か……。まったくな。
 俺もそう思うさ。

「へッ。もしあんたまでなりそこないになったら、オレが墜としてやるよ」
「信頼してるぜ。……本気でな」

 嘘じゃねえ。ネサラがなりそこないになった今、俺がそうなっちまったら前獅子王でも出て来ねえ限り、こいつ以外に俺を止められるヤツが思いつかねえからな。
 俺の台詞をどう受け取ったのか、シノンは細い眉をひそめて黙々とバルフレチェの手入れに戻った。
 温くなった茶を飲み干して湯飲みを返すと、ガトリーまで頭を掻きながら言いやがる。

「うーん…おれも、ゼーンズフトを借りて来るべきだったかも知れないっスね。女神と戦った時に手に入れた武器は、今のところ全部ベグニオンに行っちまったからなあ。宰相様が封印するとか言ってたっすけど」
「いつかまた必要になるまでか?」
「はあ。みたいっすね。まあ、もう当分そんなこともないでしょうけど。今回のことが終ったらの話ですけどね。持ってきた銀の槍はちゃんと祝福も受けましたし、騎士はおれたちが抑えられるようにがんばりますよ。とりあえず鳥翼王、交代の時間が来たら声を掛けますからどうぞ寝てください」
「……そうするか」

 笑って頷いたガトリーに俺も笑い返して、もう一度転がった。ぐっすり寝ているリュシオンを抱き込んで目を閉じると、高ぶった神経が冴え冴えと四肢に走っていることがわかる。
 ――落ち着け。まだ早い。
 初めて戦場に行く若造じゃねえんだ。逸る自分を諌めながら、俺はそのまま眠れない夜を過した。
 そして、翌日。
 遅い夜明けが来る前に、誰かに言われるまでもなくそれぞれが目を覚まし、俺たちはいよいよ問題の渓谷に向けて出発した。
 淡く金色の光を帯びたリュシオンがまだ深い藍を帯びた空に浮かび、渓谷の方向を睨みつける。赤く染み出すように浮かんでくる太陽がゆっくりと地平を照らし始めたころ、まずハールと合流した。
 本当はオリヴァーも呼ぶ予定だったが、それはやめた。リュシオンをはじめとして、生き残りの白鷺が全員揃うんだ。もし顔を合わせたらどんな騒ぎになるかわからねえからな。
 その代わりというわけじゃねえが、気を利かせたハールがオリヴァーにリュシオンからのたっての願いだと話し、何冊もの光魔法の魔道書を献上させて預かってきていた。
 それも威力の高いものばかりだ。光魔法は高価だからな。巫女とローラ、キルロイで分けて大幅に戦力が増した。
 さすがだぜ。スクリミルと並んで感心すると、ハールは相変わらず眠そうな顔で「まあ、年の功だな」なんて言いやがったが。

「鳥翼王。では、俺はこれで」
「ああ。手間を掛けるな」
「いえ。俺も手伝えりゃ良かったんですがね」

 ハールがちらりと振り返った騎竜にはもう一人同乗していた。痩せて顔色の悪い神官服のこの男が、ラグズを専門に診る医者なんだとよ。
 ……ネサラがここにいりゃあな。いろいろ訊きたがったろうに、残念だ。

「とにかく、ご武運を祈ってますよ」
「おう。道中、なにがあるかわからん。おまえも気をつけて行けよ」
「それはそちらでしょう」

 あの男が信用できるのかどうかもわからんが、こればかりは任せるしかねえ。
 ハールを見送ってからまたしばらく進み、正午を回ったころか。空の向こうから近づく数人の影と竜らしき姿が見えた。

「父上! 兄上に、リアーネ…ニアルチも来てくれたのか!」

 喜色満面になったリュシオンの声に応えて一際大きく優美な白鷺、鷺王ロライゼ様が舞い降りながら化身を解き、続けてリアーネとニアルチ、ジルの騎竜からはラフィエルがふわりと降りた。

「ティバーンさま…!」
「鳥翼王、ぼっちゃまが…ぼっちゃまがなりそこないにされたとは誠でございますか!?」

 俺から話しかける隙もねえな。
 泣きそうな顔をしたリアーネとニアルチに詰め寄られてどう答えたものか困っていると、俺の後ろからウルキが出てきて言ってくれた。

「嘘ではない。私がこの目で見たのだ…」
「おお、なんという…!」

 二人とも顔を覆って嘆いたが、リアーネはすぐに顔を上げてリュシオンと同じように渓谷の方向を見つめ、若葉色の目に鮮やかな金色の光を浮かべる。

「鳥翼王…どうか、この爺に説得させてくだされ…! ぼっちゃまは強いお心をお持ちです。きっと、きっと正気に返りましょうとも。このおいぼれの命を懸けても、説得してみせますぞ!」
「頼りにしてるぜ。だが、まずはリアーネを守ってやってくれ。きっと無茶をするだろうからな」
「もちろんですとも!」

 よし、ニアルチも立ち直ったな。相手にするのはネサラだけじゃねえ。クリミアとデインの、それも死ぬことのない精鋭騎士たちもだ。油断はできねえからな。

「ティバーン……」
「ラフィエル、すまない」

 リュシオンと巫女に挨拶を済ませ、ゆっくりと歩いて来たラフィエルの目に涙が光っていた。
 そうか。なにもかも視えちまったんだな。

「君のせいではありません……。ティバーン、あの子は君のことを」
「言うなよ。はしかみたいなもんだろ?」

 気がついていたさ。だてにあいつより長く生きてるわけじゃねえ。
 幼いころは、俺を見る目の中にいっぱいに憧れがあった。その光はどんな憎まれ口を叩く時でもどこかに残っていて、ゆっくりとだが、その中に甘やかなものが含まれ始めた。
 それはネサラの中から新しく生まれたものだ。あいつが恐れていただろうその感情を、俺が教えた。
 それなのに、あいつの心は、まだ幼いころに閉じ込められた暗闇の中にいるままだ。そこから飛び出したいくせに、光を恐れて立ち竦んでいる。だから俺の手で明るい場所に引きずり出したかった。
 誰より落ち着いていて、皮肉屋で…徹底的な合理主義者のくせに、脇が甘い。
 この騒動でじっくり向き合う時間を持って、久しぶりにあいつの穏やかな表情を見た時、俺はうれしかったんだ。
 もっと笑わせたい。償いばかりじゃなくてよ、あいつ自身も幸せになれなきゃいけねえんだよ。あいつ自身も鳥翼の民じゃねえか。
 自分でなれねえなら、俺が幸せにしてやる。
 そう思っていたのに、俺はあいつを傷つけちまった。
 別れ際のあいつの背中を思い出して目を伏せると、ラフィエルがゆっくりと微笑み、白い腕を上げてそっと俺を抱きしめた。
 ネサラが母親を重ねるわけだな……。
 飛べないはずのラフィエルの腕には、空と同じ大らかな優しさとぬくもりがあった。

「ロライゼ様に挨拶をしねえとな」
「はい…」
「無理はするなよ」
「わかっています。倒れたりはしませんよ。大丈夫ですから。……大切な者を取り戻すために戦うことができる。それはとても…とても、幸せなことです」

 穏やかなラフィエルの目にも、強い光があった。こいつももう、皆が思うような鷺じゃねえ。
 それが良い変化なのか悪い変化なのかはわからねえが、でも大切なもののために戦うってのは、生き物として至極当たり前の感情だと俺は思う。
 その戦いがどこから血を流すものなのか、ただそれだけの違いだよな。

「ロライゼ様、今回は俺の不始末でロライゼ様にまで面倒を掛けちまってすまねえ」
「面倒だなんて…そのようなこと……。あの子のためだ。苦労などとは思わないよ。しかし、この負の気は本当に凄まじい……」
「父上!」

 やっぱり、負の気が一番堪えるのはロライゼ様だよな。最後には呟くように言って倒れかけた身体を俺が支える前に、そばにいたリュシオンが支える。
 無理をさせちゃいけねえ。ラフィエルはライ辺りに乗せてもらって、俺が助けて飛ぶしかねえな。
 少し離れて様子を見ていた巫女とキルロイが慌てて駆け寄ってきたが、二人が杖をかざす前にきっと視線を強くしたリュシオンが驚くようなことを言いやがった。

「父上、どうかお気を確かに持ってください。ここで倒れては来ていただいた意味がありません!」
「そ…そうだ。そうだね」
「そうです。ネサラを助けるために、なんとしても鷺王たる父上のお力が必要なのです。それに迷える騎士たちも! 彼らを包む負の気はまだまだこんなものではありませんよ。たとえ何度倒れようと、その度叩き起こしますから、どうかそのつもりでいてください!」
「父さま、わたし、オリウイ草、持ってます!」
「あ…りがとう、もらうよ。リアーネ。わかった。私は大丈夫だ。今ここで倒れては本当に王の資格がない……」
「ええ、そうですとも!」

 よろよろとしながら苦笑したロライゼ様に、リュシオンに並んだリアーネまで力強く頷く。
 参ったな。俺よりこの二人の方がよっぽど強ェじゃねえか。
 ……俺も負けてられねえな。
 呆れるよりも感動した。
 つい笑っちまったんだが、気がつくと隣に並んでいたアイクも、スクリミルも笑っていた。もちろんほかの連中もだ。

「ティバーン、私は大丈夫だ。さあ、あの子を迎えに行こう。帰るところは場所ではない。誰かのそばなのだと、教えてあげなくてはね?」

 微笑んだロライゼ様がそっと浮かんで俺の頭に白い手を乗せた。ガキのような扱いだが、もちろん腹は立たねえさ。
 なにがあったかわかっていても、責めたりはしない。責められた方がもちろん楽だってのはあるが、それは俺の甘えだ。

「ティバーンさま!」
「おう、行くか。リアーネ」
「ウン!」

 リアーネも俺の腕を引いてぐいぐいと空へ誘う。
 ラフィエルを連れて高度を上げると、山の稜線の形が変わってきた。イベルト長城に近づいたな。あの渓谷まではもう少しだ。
 俺たちだけ先行するわけにゃ行かねえからな。鎧を着込んだガトリーはスクリミルが、セネリオはライ、リアーネはリュシオンが助けてしばらく進むと、急激に雪が少なくなってきた。
 同時に、空気の密度まで変わってんじゃねえかと思うほど「負」の気が強く、濃くなってくる。
 ヤバイな。ラグズなら気の弱い者から暴走しちまいそうだ。

「ウルキ、無理はするなよ。ジルに乗せてもらえ」
「いいえ…。これしきのこと…大丈夫です」

 むき出しになった固い地面に、俺たちの影が映る。灰色の空に雪の気配はねえが、不気味な静けさが辺りを覆っていた。
 ロライゼ様やラフィエルが心配だな。

「鳥翼王、どうだ?」
「……騎士の気配も、ネサラの気配もねえな。まさか移動したわけじゃねえはずだが」

 アイクの声が聞こえて少し降りると、追いついてきたスクリミルも化身を解いてガトリーを下ろす。

「おかしいですね。偵察に来た時にはもう、この辺りは泥の怪物や騎士たちがひしめいていました。……見てください。辺りに落ちていた武器もほとんど見当たりません」
「待ってくれ。私たちが移動してきた道筋では大きな『負』の気は感じなかったぞ」

 首を傾げたセネリオの台詞にリュシオンが眉をひそめて降り、続けてゆっくりとこちらに来た巫女が淡く金色の光を纏って呟いた。

「命の気配が……ないわ。どうして……?」
「錆びた鉄の匂いはするけど…それだけですね」
「この辺りをねぐらにしている動物の気配までまったくないのは妙だな」

 ライとスクリミルも首をかしげる。

「あの…ウルキさん。その、こんなことを訊いて申し訳ないのですが、ヤナフさんは一体どこで怪我を……?」

 そこに、ローラと頷きあったキルロイが遠慮がちに言った。そう言えば、詳しい場所の説明はまだだったな。
 いや、もちろん大まかな場所は聞いたんだが、細かい位置までははっきりわからなかったからな。

「この少し先だ…。セリノスに使いに出したあの二人が先に鴉王を見つけて、それで……」

 あんなことになったと言う前にため息をついて首を振ったウルキの背をキルロイが撫で、俺を振り返る。
 行ってみるしかないだろうな。

「ティバーン、私も行きます!」
「わたしも!」
「もちろん、私も参りますぞ!」

 さて、しかし問題はこの三人だ。もちろん勇んで進み出たのはリュシオンとリアーネ、ニアルチだった。
 一番呪歌の力の強いロライゼ様とラフィエルの顔色はもう真っ白で、かろうじて意識を保ってるような状態だし、無理はさせられねえ。
 かといって、ネサラがこの三人に襲い掛かりでもしたら大事(おおごと)だしな。

「だめだ。おまえたちはネサラが出てくるまで待ってろ。とりあえず、ウルキの言ったところには俺とスクリミルが行く」
「よし!」
「あ、あの、鳥翼王、オレは?」
「ネサラと戦り合いたいか?」

 おずおずと手を上げたライに言ってやると、大げさなほど股間に尻尾を丸め込みながら「め、めっそうもない!」とぶんぶん首を振った。

「気をつけてな。おれたちもゆっくりそっちに向かうから」

 心配そうなトパックに笑って頷くと、俺は緊張した様子のジルに空からの警戒を頼み、スクリミルと二人でウルキが指した方へ向かった。
 ……やっぱり気配がないな。一体、どうしたんだ?

「鳥翼王。本当に五千ものベオクの騎士がさまよっていたのか?」
「ああ。泥の怪物といっしょになって、この辺りにたくさんいた。間違いない」
「ふーむ…それだけの騎士が煙のように消えるとは、なんとも不気味な話だな」
「まったくだ」

 白くて楕円に見える岩の陰…ここだな。羽はないが、岩と地面のそこかしこに血の跡が残っている。
 ………嫌な空気だ。

「この先は、渓谷の下か。落とされた岩の下敷きになって多くの者が死んだと聞くが…参った。油の匂いが強すぎて鼻が利かん」
「そうだ。行ってみるか?」
「これだけ寒ければ死体も腐らん。今回ばかりは匂いで気配を探ることもできんしな。行くしかあるまい」

 がしがしと頭を掻いたスクリミルが化身して身軽に足場の悪い岩場を駆け上る。こっちからはベオクの連中が回りこむのは無理だな。
 少し向こうになるが、なだらかな道を案内するしかねえ。
 そう思いながらスクリミルのあとを追うように飛び、小高くなった場所から渓谷を見下ろした俺は息を呑んだ。

「なんだ、これは!?」

 遅れて追いついたスクリミルも叫ぶ。
 幾筋も黒い油の帯が伸びる切り立った崖の下に、蠢いていたはずの騎士たちが累々と折り重なるようにして倒れていたからだ。
 その量は上から落とされた大小の岩と同じぐらいの高さになっていた。

「動かない? 一体どうして……」

 倒れた騎士たちに動く気配はねえ。まるでさまよっていたのが嘘のように。
 おかしい。なにがあった!?
 とにかく、一度降りて調べるべきだ。
 そう思って化身しかけたんだが、その前に女の鋭い悲鳴が聞こえた。
 この声はローラか!?
 顔を見合わせるよりも早く俺とスクリミルは方向を変え、一気に戻る。だが、二つ目の岩だなを飛び越える前に、俺の首を撫でる冷ややかな気配があった。

「!」

 化身したのは本能だ。
 振り返るよりも早くスクリミルの咆哮が轟き、黒い影が過ぎる。

「スクリミル!!」

 なにがあったかわからない。
 慌てて見下ろした先に、大きな赤獅子が倒れていた。岩を駆け上ってるところを襲われたんだろう。あちこちに鮮血が散っている。
 相当の高さから岩に当たりながら落ちたはずが、さすがは獅子だ。唸りながら身を起こすスクリミルのそばに降りる前に、俺の翼が先にそれを感じた。
 わずかな風の歪み――。
 疾風の刃か!?
 化身の力を利用して大きく広げた翼で風の場を作り、襲い掛かってきた風の魔力を打ち消す。翼の守護だ。
 振り向いた先に浮かんでいたのは、蒼い燐光を纏った大きく優美な鴉だった。俺に向けられた目だけが煌々と赤い。
 狂気を孕んだ血の赤だ。禍々しいその眸は、なぜか酷く美しかった。

「ネサラ…!」

 おまえ、本当になりそこないになっちまったのか? 俺のことが、スクリミルのことがわからねえのか…!?
 訊きたいことは山のようにあった。
 だが、こんな時に俺の喉は張り付いたように動かなくて、ようやく会えたネサラがゆるやかな風に乗って旋回し、飛び去った。
 アイクたちのいる方向だ。不味い…!

「スクリミル! 傷は!?」
「死にはせん! くそ、俺としたことが無様な…! 俺もすぐあとを追う!! 行け!!」

 あの声なら心配いらねえな。それより、問題はアイクたちだ!
 あそこで押さえなけりゃいけなかったのに、俺もヤキが回ったぜ。
 ……言えねえな。思わず見とれちまったなんざ。
 クソッ!!

「い、いきなりどっから現われたんだよ、こいつらはぁッ!!」
「トパック! 無駄口を叩く暇はありませんよ! アイク、鴉王が現われました! 気をつけてください!!」
「わかっている! サザ! 深追いせずに輪の中からナイフで狙え!」
「け、けど、団長…!」

 姿よりも先に炸裂した光魔法と炎魔法の鮮やかな光が見える。
 空から見た光景に、俺は自分の目が信じられない思いだった。
 確かにさっきまではいなかったはずだ。
 それなのに、アイクたちを囲むようにクリミアとデインの騎士たちが蠢いていたからだ。
 それも、今までのようにただ漠然と向かってくるわけじゃねえ。槍使い、剣使い、それに重騎士や魔道士たちも連携していて、まるでベオクと戦争している時のように。
 一体どうなってやがるんだ!? それにネサラは…!?

「鳥翼王! スクリミルは!?」
「向こうだ。ネサラにやられた! こっちにネサラが飛んできたはずだが、知らねえか!?」
「一度旋回していましたが、それからはまだ現れてません!」

 襲い掛かってくる重騎士の攻撃からローラを庇いながら叫んだライが、悔しそうにスクリミルのいる方角を睨む。

「私が迎えに行くわ!」
「ネサラが近くにいる。低空で飛べ!」
「はい!」

 ライの気持ちを汲んだんだろう。ジルが銀の斧で魔道士二人を薙ぎ払って飛んだ。
 俺も行きたいんだが、それよりも今はリュシオンたちだ!
 濃密な「負」の気にやられたのか、四人の鷺は折り重なるように輪の中心で倒れ、そばにいたニアルチがおろおろと俺を見上げる。

「鳥翼王…!」
「リュシオン、大丈夫か!?」

 それでも、さすがにリュシオンだけは強いな。俺の声に応えて閉じていた瞼が震え、鮮やかな緑の目が俺を映す。

「ティバーン……」
「無理をするな。おまえたちは少し離れた方がいい。ネサラは俺がそこまで引きずり出してみせる!」
「違う…違います……」

 なんだ? なにを言ってる?
 起き上がったリュシオンのそばでリアーネとラフィエルも震えながら身を起こした。ロライゼ様もだ。

「引くなど…今は、できない……。ティバーン……」
「ロライゼ様?」

 初めて見る表情だった。
 いつもただ穏やかに微笑んでいたロライゼ様の白い顔にはっきりと苦悩が浮かぶ。そして、セリノスの緑そのものの色をした双眸には、涙まで盛り上がった。

「私を…どうか導いて欲しい。彼らの元まで……」
「彼ら?」
「ティバーン…どうか、私も……」

 ロライゼ様だけじゃねえ。ラフィエルも俺の腕を掴み、涙を流して言った。
 特に「負」の気に弱い二人だ。それこそ虫の息のような有様なのに、一体……。

「おいッ! ぼさっとしてんな! 死んじまうぜ!!」
「キルロイ、シノンさんといっしょにおれの後ろに入れ!」

 立て続けに撃ったシノンの矢がいつの間にか忍び寄っていた剣士と、こちらを狙っていた弓使いを射る。
 咆えるように叫んだガトリーに頷いたキルロイが背中に隠れるように飛び込み、リブローの杖をかざした。離れた場所で槍を受けたサザの傷を癒すためだ。

「――王!」
「鳥翼王さま…!!」

 巫女を庇っていたウルキが振り向き、巫女が息を呑んで叫ぶ。
 突然、空中に白金に輝く光の玉が現れた。中心にいるのは白い僧服を纏った長い黒髪の……セフェランか!?
 隊列を組んだ剣士たちのただ中に降り立つが早いか、セフェランの唇から流れるように詠唱が始まり、その身を包み始めた光に気圧されるように騎士たちが身を引く。
 そしてセフェランを中心に眩いほどの閃光が辺りを染めた。この世に二つとねえ至高の光魔法、クライディレドの輝きだ。
 さすがだな。今の一発でこの近くにいた騎士たちは軒並み力を失って崩れ落ちたぜ。

「遅くなりまして、申し訳ありません」
「セフェランさま! 一体どこに行ってたんだよ!? おれたち、すっげー心配したんだぞ!」

 ぽかんとするアイクたちに微笑み、こちらに歩いてくるセフェランにまず食って掛かったのはトパックだった。
 まったく、この男だけはわけがわからねえな。一体、どこにいたんだ?

「お話は大体わかっています。……鴉王がなりそこないになったそうですね」
「なんでもお見通しなんだな。それで、あんたは今までどこにいたんだ?」
「探し物をしていました」
「探し物?」
「はい」

 スクリミルが戻ったんだな。ローラが慌しく回復の杖を使うのを眺めながら、セフェランは自分が斃した騎士たちの間を優雅に歩いてきて頷く。

「で、見つかったのか?」
「はい。こちらに」
「なにを包んでるんだ? この形は杖みてえだが」
「そうです」

 どうやら布にも紐にも魔封じの術を掛けてあるらしい光が浮かんでいる。やけに厳重な包みを解いて現われたのは、今にも朽ちそうに古ぼけた杖だった。
 なんだ? ずいぶん古いみたいだが見たことのねえ形だな。
 微笑んだセフェランはそのまま俺の横を通り過ぎる。

「あなたが鷺王ですね」
「……そうだが、あなたがどうしてここに……」
「あなたに渡したいものがあります」

 そしてなんとか立ち上がったロライゼ様の手に、なにかを手渡した。白い絹の手巾に包まれたものだ。

「それ…は……」

 見ただけで中身を察したのか、息を呑んだのはラフィエルだった。
 なんだ?

「!」
「あ…兄さま……」

 リュシオンも目を見開き、リアーネが震え出す。
 ロライゼ様が広げた手巾の中には、さまざまな色の羽が入っていた。灰色、茶色……それに、白。間違いねえ。鷺の羽だ!

「ありがとう…本当に、我らの同胞を…その心をここに……」
「鷺王。これは、鴉王が届けるべきものでした」

 ネサラが? どういうことだ!?
 騎士たちの猛攻が再び始まったが、気になって動けねえ。震えるリュシオンと寄り添うリアーネの肩を抱いて俺も話を聞くが、まったく意味がわからなかった。
 困惑する俺たちをよそに、アイクとセネリオが厳しい表情で空を睨む。重い鎧の音をさせてガトリーが足を止めた横でシノンも顔を上げた。
 言われなくてもわかるさ。この気配はネサラだ。
 それから、なんだかわからねえが酷く歪な……奇妙な気配と。

「鳥翼王。翼の民の命を預かる者よ。あなたは知らなくてはなりません」
「なんだ…? あれは、なんだ…!?」

 灰色の空に、染みのような黒いなにかが広がる。信じられない思いでしばらく見つめて、ようやく俺にもわかった。
 それが、とてつもなく巨大な鳥の姿だと。

「我らの嘆き、痛み……絶望。その全てが悲しい亡者たちを生み出した、その事実をです」

 セフェランの声に続いて、風の音が聞こえる。……違う。人の声だ。
 屍になり、倒れたベオクたちの喉から出る、風のような呻きだった。
 祈るような、叫ぶような……。
 セフェランの言葉の意味を、俺よりも先に悟ったリュシオンとリアーネが声もなく膝をつく。

「なりそこないを生み出した薬の正体は、『負』の気によって歪められた鷺の血です。セリノスの虐殺には、鷺の血を取る目的もあったのですよ」
「なん…だと……?」

 驚いたなんてものじゃねえ。
 俺だけじゃなく、ライやスクリミルも目を剥いた。

「そんな…まさか、『勇武』の唄を…?」
「白鷺である私たちにしか呪歌は謡えない。だが、血の中に全ての呪歌が眠っている。だから……」

 呻くようなリュシオンとロライゼ様の声に、俺はなにも言えなかった。
 ニンゲンが憎い。その思いは俺の皮膚まで突き破って形になっちまいそうだ。
 それでもかろうじて正気を保てたのは、ここにいる「ニンゲン」たち――。アイクたち皆が俺と同じように怒りを感じてくれているのがわかっているからだった。

「スクリミル!」
「鴉…? いや、違う。あれは……」

 震えたライに答えたスクリミルの声もかすれていた。
 見上げた空に浮かんでいたあの巨大な鳥が目を開いた。思ったとおり、狂気を孕んだあの赤い目だ。
 だが、それよりも俺たちが驚いたのは、その巨大な灰色の鳥の形が明らかに鷺のものになったからだった。
 実体じゃねえ。その証拠に、鷺の姿は陽炎のように揺れて、羽ばたきもない。

「あれは…鷺なのか」
「はい。いえ…正しくは、かつては鷺であった者たちです。『負』に染まり、歪んだ鷺の意識が集まり、あのような姿になりました」

 信じたくねえ。一度目を閉じて、俺はもう一つ訊いた。

「ネサラをなりそこないにしたのは……そして、死んだベオクの身体を操ってるのも、あそこにいる、鷺たちなんだな?」
「その答えは、どちらとも言えません。鴉王は彼らを守りたかった。恐らく……」

 空に大きく広がった黒い鷺の辺りから、雨が降り出した。粘つくような冷たい雨だ。
 ネサラが化身の力を失った時も、雨が降っていたと言っていたな。
 鷺は森に生きる民だ。雨は森を潤す。そういうことかよ……。
 おまえ、そんな姿になって……守ろうとしたのか? 守りたかったんだよな。
 だからこんな……クソッ!!

「ラフィエル、リュシオン、リアーネ……我らの民だ。『負』の気に歪められてしまった我らの民が……」
「怒りを覚えたのです。大切な者を奪われて……生まれて初めて怒りを、憎しみを。私は…私たちは無事だったのに、どうして彼らが…!」

 泣きながら見上げる鷺王とラフィエルに、答える者はいなかった。
 ただ「正」か「負」かの違いなら、白鷺の方がはるかに「正」に偏っているはずだ。
 それでも存在が歪められなかったのはきっと、心の強さの違いなんじゃねえかと俺は思う。
 ラフィエルだけじゃねえ。リュシオンもそうだ。
 だが、あいつらは……。

「ネサラ…!」
「ぼっちゃま!」

 そして、巨大な鷺を背に庇うように、ネサラが現れた。
 全身から溢れる「負」の気の強さは、俺でさえ息を呑むほどだ。
 だが、リュシオンもリアーネも怯まねえ。
 赤い目をしたネサラを、ただじっとひたむきに見つめていた。

「鳥翼王……」
「ああ」

 セフェランの囁きのような声に答えた俺の後ろで、しばらく顔を覆っていたロライゼ様がラフィエルたちに語りかけた。
 降り注ぐ冷たい雨の中、自らの腕にある、王者の腕輪を撫でて化身しながら。

「私たちはいつでも守られてきた。だが、今ここで我らの民を救えるのは私たちしかいない。わが子らよ、わかるね?」

 慈愛と威厳に満ちた鷺王の声に、静かに三人が頷く。
 大きな白鷺に化身した鷺王から溢れたのは、呪歌だ。
 季節の移ろい、空を渡る風の行方、そして人の心にある全ての感情。なにもかもを織り成す鷺王の清冽な唄声が、大地を染める夜明けの太陽のように魂にまで響き渡る。
 「再生」の呪歌か…? いや、違う。まさか、これは…!

「ラフィエル!」

 かすかに聞き取れた古代語に戦慄して振り返ると、静かに瞑目していたラフィエルが教えてくれた。

「『滅び』の呪歌です。……もう、ここまで歪んでしまった彼らを救うことは、父にさえできません」
「だが、それじゃあんまりだろう!?」

 仲間を、家族を思って歪んじまった鷺たちが、鷺王自らの力で滅びるのか? なにより、そんなことをしてロライゼ様が無事とは思えねえ!
 そう思ったからつい言っちまったんだ。俺も王だ。俺だって仲間を楽にしてやりたい一心でこの手に掛けた。
 それを覚えていながら。

「ティバーン……『滅び』の呪歌には、もう一つ意味があるのです。
それは『始まり』……。この呪歌は、鷺王たる父にしか謡えません。そして、謡うことによって鷺としての魔力の全てを解放するのです」
「なんだと…?」

 振り向いた先で、謡い続けるロライゼ様の金色の魔力が散っているのが見えた。
 まるで、ロライゼ様の身体から抜け落ちる羽のように。

「すごいな」
「ええ。これなら、この渓谷そのものが浄化されるでしょうね」

 呆然とするアイクの声に答えたセネリオの声には隠せねえ安堵が滲んでいた。
 雨がまばらになった。動き始めていた騎士たちはまた崩れ落ち、空に浮かんでいた黒っぽい灰色の巨大な鷺の影が苦しそうに身をよじる。ネサラもだ。

「シノンさん、鴉王が…ほら、苦しんでますよ」
「へッ。これで正気に返りゃいいがな」

 斬りかかろうとしていた斧勇士がガトリーの前で膝をつき、シノンも空を見上げて笑う。
 まったくだ。それについちゃ同感だな。

「ぼっちゃま……!」
「ニアルチ、行くな!」

 今、下手に刺激するのは危ねえ。そう思って引き止めたんだ。
 だが、身をよじっていたネサラの動きが止まり、忽然と姿が消えた。

「!」

 次の瞬間には鋭い金属音を立ててガトリーが吹っ飛び、立ちすくむ巫女を庇ったアイクの銀の大剣がネサラのくちばしを受け止めていた。

「クソッ!」

 シノンがバルフレチェを向けるが、アイクとネサラの攻防が激しくて弓を放てねえ。傷を省みずに化身したスクリミルも飛び掛かるが、ネサラの方が素早い。

「アイク…!」

 キルロイが青くなって叫び、影のように忍び寄ったフォルカが放った銀のナイフをかわしたネサラの視線の先には、トパックとサザがいた。
 いけねえ!

「やめろ、ネサラ!!」

 俺と同時に化身したリュシオンが飛び出すが、それよりも早くネサラがまた消える。
 俺の目が追えない…? あいつ、疾くなってやがるのか!?

「きゃあ!」
「ミカヤッ!!」

 疾風の刃がネサラを中心に飛び、ローラとともに鷺王たちを庇って立っていた巫女もろともサザまで吹き飛ばす。
 そして、俺が飛び込むよりも早く、そのくちばしが捕えたのは倒れたガトリーを庇うアイクだった。

「アイク! よくも…!!」

 よせ! 逃げろ!!
 叫ぶ間もねえ。
 肩口から鮮血を噴き上げて倒れたアイクを見て激昂したセネリオが呪文を唱えるよりも早く、シノンが華奢な身体を抱え込んで弓を放つ。
 だが、狙う隙もなかったその矢はネサラの翼を掠めただけで、鷹ほどじゃなくても鋭い鉤爪が今度はシノンに襲い掛かった。

「アイク! シノン!!」

 ガトリーにリブローを掛けていたキルロイがウルキに押さえ込まれる。
 俺が降りた時にはセネリオを抱え込んだまま、血まみれになったシノンが転がっていた。左腕が関節から折れて曲がり、胸元まで引き裂かれたような傷が広がっている。
 なんて速さだ。この俺があとを追えねえだと!?

「ぼっちゃま! ご友人にあのような傷を負わせるなど…ぼっちゃま!!」
「ネサラ…だめ……!」
「リアーネ……」

 嘆くニアルチをスクリミルが押さえて、ふらふらと立ち上がったリアーネはラフィエルが止めた。
 だが、リュシオンは再び距離を取ったネサラを睨んで叫ぶ。

「ネサラ! 私に掛かって来い! おまえが鷺の血で歪められたと言うなら、この私の血でおまえを清めてやる!!」
「リュシオン、よせ! 降りろ!!」
「嫌です! こんなことで私は死んだりしない! どんな傷を受けようと必ず生き延びて、ネサラを殴ってみせます!!」

 気持ちはわかるが、無理だ。なにより、今のネサラからリュシオンを庇って戦うだけの余裕が俺にない。

「リュシオン、降りろ」
「でも…!」
「降りて、よく見ろ! ロライゼ様の呪歌でも鎮まらねえなら、俺が行くしかねえ」

 いつの間にか粘ついた雨は止んでいた。その代わりのように、ロライゼ様の魔力の破片が降り注ぐ。まるで金色の雪みてえだ。
 その魔力に触れて崩れ落ちていく騎士とは対照的に、ネサラを取り巻く「負」の気はより強く、純粋になっていくようだった。
 参ったな。いつか…やりてえとは思ってはいたさ。この空で唯一俺と戦えるこいつとな。

「ヤナフたちのことだけじゃねえ。正気に返った時、よりにもよっておまえまで傷つけたとあっちゃあ、ネサラがどれほど苦しむかわかるだろうが!?」

 目も声もきつくして諭すと、リュシオンは唇を噛み締め、炎のような目でネサラを睨みながら言った。

「友を…救うために戦うこともできない身体なんて……! こんな時さえ!」
「リュシオン」
「悔しい…! 私は、悔しいのです…!!」
「わかってる。おまえの気持ちはよくわかった」

 化身を解いて抱きしめた俺の腕に、血を吐くように呻いたリュシオンの涙が落ちる。その涙の重みを噛み締めながら、俺は青い顔でそばに来たジルを見た。

「鳥翼王様、私……」
「ジル、リュシオンたちを頼む。間違ってもそれ以上の高さを飛ぶなよ」

 しばらく悲痛な目でネサラを見上げたジルが頷いて、リュシオンだけじゃねえ。傷ついて倒れたアイクたちを庇うようにそばに下りた。
 誘うように俺が少し高度を上げると、ネサラも高度を上げる。
 セネリオとラフィエルが俺を見上げて頷いた。俺も頷き返す。
 ネサラに正気を取り戻させるには、囲い込んで「再生」の呪歌を聞かせるしかねえ。
 つまりは、セネリオが言ったようにそれだけ弱らせるか、もしくは強引に押さえ込まなきゃならねえってことだ。

「ったく……。こんな時でも見とれちまうんだからな」

 再び化身して、対峙したネサラが一回り大きく見える。
 翼が膨らむような…肌が粟立つような感覚がした。この感情は、恐怖だ。
 ………認めざるを得ねえ。俺は今、この空において初めて俺の命を脅かすだけの力を持つ雄敵と相対している。
 こいつは俺の前で戦う時に、本気を出したことがなかったんじゃねえか?
 いや、本人は本気のつもりだったかも知れねえが、これだけ力が変わってるんじゃそうとしか思えん。
 もともとは気の優しいヤツだ。そういうことがあっても不思議じゃねえ。
 ぎらぎらと殺気にまみれた赤い目で俺を睨んでいたネサラが高く鳴く。一息に高度を上げた。
 今度は俺も動きを見失ったりはしねえ。
 ネサラの頭上に一瞬で舞い上がると、俺はネサラの黒い翼の付け根目掛けて襲い掛かった。獲物を狩るための急降下だ。鴉じゃまずかわせねえ。

「!?」

 だが、俺の鉤爪が掴んだのは空だ。頭の後ろでひやりと羽根が逆立つ。
 くそ、背中を取られた!?
 翼の守護も間に合わねえ! 強引に風をねじ伏せて斜めにかわすと、そこに黒い翼が見えた。まだ来るのか!?
 かわしたはずの翼が迫り、大きく身を引いた俺の肩口に鋭い痛みが走る。ネサラのくちばしだ。
 かすったと言うには深く、いつものネサラが相手ならせいぜい羽根を数本持っていかれる程度が、肉まで届いた。
 一瞬、見交わした赤い目にあるのはただ純粋な殺意だ。
 ――惜しくはねえ。
 命を惜しんで戦士が務まるかよ!
 風を利用して大きく旋回しながら距離を詰めると、ネサラも応じて迫る。黒い稲妻のように。
 ネサラの速さじゃ俺でさえ背中を取るのは難しい。行くなら正面しかねえ!
 ネサラのくちばしが胸元から肩口に迫る。刺さるのを承知で突っ込み、俺は鉤爪でネサラの翼を狙った。
 だが、俺にくちばしを食い込ませる前に身を引こうとしやがって攻撃が逸れ、脚に当たる。
 この野郎! こんな時でも冷静さは変わらずかよ! 手応えはあったが、脚じゃ速度は変わらねえだろ!!

「!」

 だが、ネサラの動きが止まった。
 なんだ? なにを見て……あの巨大な鷺か!?
 ほとんど姿が消えかけていた濃い灰色の鷺が小さくなり、苦しそうにもがいて落ちる。落ちながら、まるで羽根が抜け落ちるように「負」の気にまみれた魔力が剥がれ、姿が薄れていった。
 その鷺に向かってネサラが飛ぶ。後ろにいる俺のことを忘れたように。
 この機会を逃してたまるか!!

「セネリオッ!!」

 肉迫して細い躰を掴むと、ネサラの口から悲鳴が上がった。俺の声に応えたセネリオの魔力が発動する。
 あいつは俺たちと同等か、もしかしたらそれ以上に正確に風を操る。魔力を使って風の道を歪ませ、ネサラと俺の周りから浮力が消えた。
 この高さで落ちたら痛ェじゃ済まねえかも知れんが、しょうがねえ! 覚悟を決めてネサラを掴んだまま、俺はほとんど墜落するように地面に叩きつけられた。
 もちろん落ちる寸前にネサラは庇った。受身のように翼を使っても落ちた左肩から腕を中心に骨の数本がイカれた気がするが、それはすかさず降って来た巫女とセフェランの回復の杖の魔力が癒す。

「リュシオン、リアーネ…!」
「はい!」

 ラフィエルの呼びかけにリュシオンとリアーネが俺たちを囲み、謡い始めた。「再生」の呪歌だ。
 ロライゼ様は長い唄を謡い終えて、よろよろとこちらに歩いてきた。その手にある王者の腕輪から魔力が消えている。ロライゼ様自身からも。
 鷺王がその王位から降りた瞬間だった。

「くそッ、ネサラ、暴れんな!!」
「鳥翼王……」

 苦しいのか、ネサラがもがく。肩の傷を押さえたアイクも来たが、返事をする余裕もなかった。
 三人の、それぞれ特徴の違う清らかな呪歌が響く。魂まで洗われるような、気を抜けば俺の化身さえ解けそうな……そんな歌声だった。

「民よ……私は、弱い王だった。おまえたちを誰も守れずに……」

 ロライゼ様が囁くように呟き、そのそばに無数の羽が舞い落ちてきた。さまざまな色の、鷺の羽だ。
 いびつに歪み、一つになって固まっていた巨大な鷺の姿はなくなり、ただ落ちては消える羽になって大地に還る。
 騎士たちももう動かなかった。鷺たちが操っていたというよりも、鷺たちの魔力に惹かれてさまよってたのかも知れねえな。
 歪みきった鷺たちの意識に宿っていた最後の思い、「帰りたい」という気持ちに突き動かされるように。

「ど…どうして?」
「おい、鳥翼王。おかしいぞ…!」

 息を呑む巫女の声とスクリミルの声に慌てて視線を戻すと、俺に押さえ込まれているネサラがまだ暴れていた。
 その目は赤いままだ。どういうことだ?
 歪んだ魔力が抜ける苦しみで暴れてたんじゃないのか!?

「ぼ…ぼっちゃま……」

 ラフィエルたちが凍りついたようにネサラを見つめて立ち尽くし、ニアルチがよろよろと近づいて暴れたネサラの翼にあおられて尻餅をついた。
 「再生」の呪歌はもう終ってる。それなのになんでだ!?

「ティバーン……」

 暴れるネサラを押さえ込みながらなんとかロライゼ様を見ると、ロライゼ様は呆然としたまま首を横に振る。
 ラフィエルが顔を覆った。
 信じられねえ。
 そんな思いで視線をめぐらせた先に、震えるような息をついてネサラに手を伸ばそうとするリアーネがいた。

「リアーネ姫、いけません…!」
「どうして…? どうしてネサラ、いや……!」

 ジルがリアーネを止めた。リュシオンは凍りついたままだ。
 深手を負ったガトリーとシノンを癒していたキルロイとローラが立ち上がり、ウルキが俺を見て目を伏せる。

「自ら選んだからです」
「なんだと…?」

 それまで黙って見ていたセフェランが、ぽつりと言った。

「鴉王は、自ら選びました。あなたにはわかっているでしょう?」

 あの鷺を…守るためにか?
 無意識に俺は息を呑んだ。アイクもだ。

「なんでだよぉ、なんでそんなことになっちゃうんだよぉ…!」

 一瞬力が抜けそうになって、ネサラがさらに激しく暴れる。かろうじてその動きを押さえつけると、トパックが泣きながら首を横に振り、サザはただ青くなって俺たちを見る。
 フォルカだけが冷静にバゼラードを抜いていた。

「鳥翼王…僕がやります」
「ふざけんな…!」

 事態を飲み込んだんだろう。青い顔をしたセネリオが淡々と言いながら荷袋から魔道書を取り出す。もちろん、レクスカリバーだ。止めたのはシノンだった。

「どうして止めるんです? あなたもその様です。鳥翼王も、この場にいる誰もがやりたくない。それでも誰かがやるしかないでしょう?」

 だがシノンはセネリオの手から開きかけた魔道書を奪い、ほとんど動かない腕で必死にバルフレチェを手繰り寄せ、怒鳴った。まだ起きないガトリーを蹴飛ばしながら。

「ああ、そうだ! 誰かがやるしかねえ! けど、それはてめえじゃねえよ! そいつは…てめえの、初めてのダチだろが…!!」

 シノンだけじゃねえ。化身を解いていたスクリミルも一度咆えて項垂れ、すぐに強い視線を上げて「俺がやろう」と言う。ライは止めなかった。ただ耳を伏せて色違いの目を閉じ、頷くだけだ。
 ウルキは俯いて黙り込み、娘たちは泣いていた。
 アイクも、音がするほど強く銀の大剣を握り、ひたむきな目で俺を見る。
 本当に、ここにいるのは、優しいヤツばかりだ。

「ネサラ………」

 聴こえるか? おまえのために、これだけ辛い思いをしている連中がいる。
 なあ、聴こえるよな? なりそこないになったって…本当に心を失うわけじゃねえんだろう?

「王…ティバーン……。私がやろう。ヤナフがいれば…きっとこう言った。だから私も同じことを言う。そして選ぶ」

 唇を噛み締めて泣くキルロイの背中を撫で、ようやく顔を上げて俺を見た無表情なウルキの目から、涙が落ちた。
 リアーネが鋭く息を呑んで暴れ出す。リュシオンも縋るように俺を見た。
 ロライゼ様は瞑目し、ラフィエルは……。
 ラフィエルだけは、俺の気持ちを汲むように涙を拭い、謡った。
 「勇武」の唄を。

「フォルカ……おまえたちも、下がってろ。こいつが狙うのは俺だ」
「…………」

 なりそこないになって、本能に忠実なら、なおさらだ。この中で一番強い俺を狙う。
 ちらりと俺を見たフォルカがバゼラードを握ったまま、一歩下がる。
 巫女が泣いて首を振り、ローラはただ悲しそうに俺を見た。
 ネサラを押さえつけていた力を緩める。すり抜けた翼が風を取り戻して空に還った。

「やめて、やめて! もうネサラをきずつけないでぇ…!!」

 俺も、あとを追う。
 リアーネの叫びが刃物より鋭く俺の臓腑を抉ったが、もうほかに方法がねえ。
 歪んだ鷺の魔力が消え、雲まで払われたように、あちこちから太陽の光が差し込んできた。
 そんな空に浮かぶネサラは、ただ綺麗だ。
 俺を見る赤い目には感情はなかったが、それでも澄んでいる。

「俺を呼べよ、ネサラ」

 ネサラは応えねえ。ただ純粋な殺意を俺に向けて浮かんでいるだけだ。

「言っただろ? おまえが呼んだらどこへでも飛んで行くと。約束…守れなくて悪かったな」

 女神の塔の中でルカンの野郎が言っていた。
 一度だけ、まだ幼かったネサラが俺を呼んで泣いたことがあると。
 俺は…知らなかった。
 俺を呼んで、助けを求めて、そして二度と呼ばなかった。
 きっとそのたった一度で、俺に、フェニキスに興味を持たれた。それを恐れたのだと。
 おまえ、守ろうとしてくれてたんだよな。キルヴァスだけじゃねえ。できることならフェニキスも。
 遠ざかることで必死に守ってくれていた。
 俺はそんなおまえに応えられたか? なにか一つでも……。

「それでも裏切りは裏切りだと、おまえなら言うだろうな」

 そういうヤツだ。
 だから俺は、おまえに惹かれた。
 おまえは弱くなんかない。おまえほど強くて、芯の通った王はいねえよ。こんなこと、今さら言ったってしょうがねえけどな。
 ネサラが距離を空けた。
 俺も風を読んで距離を詰める。
 速さなら圧倒的にネサラが勝ってる。だが、力と飛行技術は俺に分がある。

「すぐ、楽にしてやる」

 ネサラのまとう蒼い燐光が強くなった。滑翔か…――出させねえ!
 羽ばたき一つで肉迫すると、すかさずネサラが高度を上げる。追いつく前に襲い掛かってきた「疾風の刃」であちこちが薄く切れたが、そんなもんで止められるほど俺の翼は弱くねえ。
 ネサラの高度を越え、上から襲い掛かる前にネサラが姿を消す。魔力で風を馴らして左に飛んだんだ。
 読み勝ちだ。だが、先に落ちた俺の鉤爪が掴んだのは黒い尾羽数本だった。
 クソ、なんてぇ素早さだ…!!
 ネサラのくちばしが迫る。受け止めた鉤爪が砕けるかというほどの痛みが走った。掴む前に旋回したネサラの羽根が俺の鉤爪に持っていかれて飛び散った。
 鉤爪だけじゃねえ。俺の翼も、細かい傷をいくつも受けた。
 無傷じゃねえのはお互い様だ。
 ネサラのくちばしと俺の鉤爪が角度を変えながら何度もぶつかり合い、金属めいた音を立てて離れる。鴉の翼は華奢だと思っていたが、俺と互角に戦り合うネサラを見ているとそれは俺の錯覚なんじゃねえかと思ったぐらいだ。
 もちろん、翼同士がまともにぶつかればネサラは無傷じゃ済まねえ。致命傷を負わねえぎりぎりのタイミングで俺の攻撃をいなすネサラの器用さには舌を巻いた。
 俺の羽とネサラの羽が絡み合うように落ちる。
 心もそうなれたらいい。それは俺の感傷でしかねえが、本気でそう思った。
 繰り返すぶつかり合いで先に翼を痛めたネサラがぐらつく。喉笛に襲い掛かる俺の鉤爪を僅かにかわしたネサラのくちばしが俺の翼の付け根を掠めた。
 だが、先に俺の鉤爪が深く黒い翼を抉り、鮮血が散った。
 大きく体勢を崩したネサラが墜ちる。その隙を逃さず上昇した空から一気に下降すると、射落とされるように墜ちていたはずのネサラの赤い双眸がまっすぐに俺を捕えたままだったことに気づき、背筋に戦慄が走った。罠だ。
 だが、もう俺もかわせねえ。
 熱い痛みが迸った。ネサラのくちばしが矢のように鋭く俺の脇腹を抉る。
 だが、俺の鉤爪もネサラの身体を深々と掴んでいた。
 ―――終わりだ。
 堪らずもがいたネサラのくちばしがずるりと抜けて、苦鳴が漏れた。
 それでも、俺を見る目の赤は変わらねえ。ばたつく翼が不自由な姿勢から「疾風の刃」を放ち、自分もろとも俺を狙う。
 あちこちが引き裂かれる痛みが襲ったが、それはネサラも同じだったはずだ。俺とネサラの羽が大量に舞った。
 おまえを…守ろうと思っていたこの俺が……!!
 鈍い手応えがあった。俺の鉤爪がネサラの骨を砕いた音だ。
 ネサラの化身が解ける。俺の化身も。
 きりもみ状態で落ちながらネサラを抱き寄せ、俺は翼の痛みに呻きながらなんとか風を捕えて地上に降りた。

「ネサラぁ…!!」

 真っ先に飛び寄ってきたのはリアーネだ。それからニアルチが声もなくよろよろとそばに来る。

「王…! キルロイ、早く杖を!」

 ウルキも来た。次々俺たちに降りかかる魔力はリブローだな。俺には吸い込まれたその魔力が、ネサラには届かない。虚しく弾かれて落ちる回復の魔力を、俺はただ見ていることしかできなかった。

「ど、どうして…どうして杖が効かないんだ!?」

 リュシオンが気づいて、自分の服を引き裂き、ネサラの傷跡に押し当てる。見る見る赤くなる布と自分の手よりもその部分の感触に呆然として、リュシオンの目がぎこちなく俺を見上げた。

「リュシオン。……手を握ってやれ」

 わなわなとリュシオンの唇が震え、鮮やかな緑の双眸にゆっくりと涙が盛り上がる。その涙がこぼれる前に、リュシオンは赤くなった手でリアーネの手に重ねるように、ネサラの手を握った。

「ネサラ…ネサラ?」
「ネサラ、おきて……」

 やっぱりこいつらの呼びかけが一番なんだな。
 ゆっくりとネサラの目が開いた。
 その目にはもう、さっきまでの狂気のような赤い光はねえ。まるで月のない夜のような藍を帯びた、あのネサラの懐かしい目だった。
 ぼんやりとしていた目が目の前にいた二人を見つけて焦点を合わせる。それからゆっくりと俺を見て、ぎこちなく瞬きした。

「……ィバー……ン……?」
「おう、ここにいるぜ」

 やっと呼んでくれたな。
 ふらふらと上がった手をリュシオンが掴みかけるが、それはリアーネが制して、ネサラの手は……これはもう癖なんだろうよ。
 俺が抱きしめる時に、いつもそうしていたように、そっと俺の胸元に納まる。
 俺の傷も塞がってねえが、ネサラの傷の方が重い。
 リュシオンに続いて手巾を添えて押さえても、傷が深すぎて俺の手を伝って地面にネサラの血が滴るだけだ。
 骨も何本もイカれてる。内臓も潰したはずだ。……こうなったらもう、止血もできねえ。
 押さえていてももう意味がねえからな。代わりに俺はネサラの手をしっかりと握ってやった。

「ん? なんだ?」
「いたく…ないかって……ティバーンさまの……けが……」

 ネサラの唇が動いたが、なにを言いたいのかがわからねえ。
 だからそれはリアーネが教えてくれた。

「馬鹿。こんな怪我なんかなあ……痛ぇに決まってんだろ!」

 相打ちだ。……俺が生きてるのはただ、俺の方が筋肉が厚かったから。それだけの理由だった。

「強くなったな。俺の体格がおまえと同じぐらいだったら、俺の方が先にくたばってたぜ」

 俺はずっとおまえを守ってやりたい、守らなきゃならねえと思っていた。おまえがキルヴァス王になってからも、ずっと底にはそんな思いがあった。
 だが、違うんだな。
 俺が守っていたあの小さな鴉の雛は、いつの間にかこんなに強くなってやがった。
 本当に、もうとっくに俺たちは対等な王同士だったんだ。そのことにやっと気がついてよ、なにもかも…これからじゃねえか…!!

「誇れよ。空でこの俺を墜とせるのは、本当におまえだけだ」

 ネサラの目がかすかに和らぐ。笑ったみてえだ。
 馬鹿野郎……。うれしそうな顔をするんじゃねえよ。
 気がつくと、アイクたちもそばに来ていた。懐かしい顔ぶれに囲まれて、ネサラの表情は初めて見るほど穏やかだった。

「鴉王さまには…もう…回復の杖は……」

 泣きながら首を振る巫女を、セフェランが視線でなだめる。ウルキは信じられないようにネサラを見て、キルロイを見て、友の流す涙の意味を知ったんだろう。
 呆然とへたり込んだニアルチを支えるように膝をついた。

「ネサラ…死ぬな。赦さないぞ。そんなこと、絶対に赦さない…!!」

 ロライゼ様とラフィエルが静かに見守る中、怒り出したリュシオンがずたずたになったネサラの黒衣の胸元を掴んで揺さぶる。

「だめッ!」

 リアーネの悲鳴より早く、ネサラの口から鮮血が迸った。
 ネサラの顔色が変わる。やばい、窒息させちまう!
 だが、俺よりも早くリアーネがネサラに飛びつき、ネサラの血を吸い取った。何度も、ほとんど声もなく咳き込むネサラの苦しみを丸ごと引き受けるように。
 それから血まみれの顔を拭いもせずにネサラの頬に頬をつけ、囁いた。

「こわく…ないよ。へいき……。わたしたち、ずっと……いっしょ。ここにいる……」

 そのあとは、古代語でネサラの耳元に続ける。ラフィエルがそっとリアーネの口元を拭った。
 そして、リアーネが謡い出した。「喜樂」の呪歌だ。花のような優しい声が、ネサラの不安を慰めるように辺りに響く。

「私が見えないのか? ネサラ……」
「リュシオン。手を……」

 リュシオンの涙がネサラの上に落ちた。ラフィエルがリュシオンの手からネサラの手を取り、俺を見る。……代われってか。
 渡したくねえ。だが、ロライゼ様に肩を抱かれて、俺はぎこちなくラフィエルの腕にネサラを渡した。手だけは繋いだままで。
 わかってる。ラフィエルはネサラのお袋みてえなもんだ。だが、俺はまるで自分の皮膚ごとネサラを剥がされたような気がした。

「皆、そばにいますよ。ネサラ……ここにいます」
「ぼっちゃま……」

 呼吸が速く、浅くなってきた。ようやくニアルチがネサラに寄り、節くれだった手でネサラの前髪を撫で付けてやる。

「お強うなられた。じいはしっかりと見ておりましたぞ」

 俺だけが、なんて言えばいいのかわからねえ。
 国のことか? 鴉たちのことか? それとも……クソ、そんなもん、頼まれなくたって守るに決まってる!
 そうじゃねえ。そうじゃなくてもっとなにか………。

「ネサラ……」

 結局、ただ名を呼んだだけだ。
 こいつの不安を和らげることも、一息に楽にしてやることもできなかった。
 俺は…無力だ…!!
 ネサラの視線がゆっくりと動いた。こんな時なのにな。
 鏡のように澄んだ目に、ぎこちなく笑う俺の顔が映っている。
 唇が動いて、また俺を呼んだのがわかった。
 口の端を伝った黒っぽい血を拭い、冷たくなった頬に手を添えてやる。
 苦しそうに顎が上がり、浅かった呼吸がゆっくりと、深く変わる。
 リアーネは謡い、リュシオンは凍りついたようにネサラをただ見つめていた。

「鴉王、貴様…こんな、こんなところで…貴様…!!」
「スクリミル、やめろ」

 ライの制止のあとは、ただむせび泣くスクリミルの嗚咽が聞こえた。ライと、意識を取り戻したガトリーも泣いていた。

「トパック…もうやめろよ」
「やめねえよ! やめてたまるか! なんで…効かねえんだよぉ!」

 サザになだめられながら、トパックも必死に回復の杖を使うが、効果は出ねえ。

「ネサラ。なにか俺に言いたいことはあるか?」

 そっと問い掛けると、俺が握っていた冷たくなった手に、初めて力がこもった。
 それが、最後だった。
 かすかに笑ったような気がした唇から、深いため息がこぼれる。
 そして、俺を映したまま、ネサラの目からゆっくりと光が消えていった。
 リアーネの唄が止まり、フォルカは視線をそらし、シノンが背中を向けた。
 アイクが項垂れて黙り込んだままのセネリオの背中を抱く。
 巫女とジルが俯いて泣き、ローラは……。キルロイよりも早く祈りの言葉を口にしようとして、果たせずに顔を覆った。

「ティバーン……」
「ああ」

 おかしなもんだな。ラフィエルがそっと俺にネサラの身体を返した時、やっと俺は初めてネサラを本当に抱きしめられたような気がした。
 血まみれの口元をもう一度拭いて、乱れた髪を撫で付けてやる。娘たちの悲鳴のような泣き声が、俺の耳を素通りした。
 冷えた身体が寒そうで、きつく抱きしめた。何度も頭を撫でると、まるで居眠りしたネサラを見つけただけみてえだ。

「ネサラ」

 やっとネサラの腹の傷から出血が止まっていて、それがやけにうれしかった。

「ネサラ……」

 もっと、言いたいことがあったはずなんだがな。なにも思い出せねえのが不思議だ。
 目を閉じさせてやらねえと……。
 そう思うのに、俺の手はなかなか動かねえ。
 らしくねえな。震える手を一度きつく握り、俺はようやく虚ろに開かれたままだったネサラの瞼をそっと閉ざしてやった。
 そんな俺のそばに、セフェランが膝をつく。
 弔いかと思ったら、そうじゃなかった。俺を見た目にあるのは、悲しみじゃねえ。

「このまま見送りますか?」

 どういう意味だ?
 なにを言い出したのかわからずセフェランを見ると、まずラフィエルがロライゼ様と顔を見合わせ、次いでリアーネがぐいと涙を拭って呆然としていたリュシオンの腕を引いた。

「鴉王は恐らく望んではいません。ですが…本気で取り戻そうと思うなら、できるかも知れません」

 ネサラを取り戻せる……!?

「ティバーン…せめて止血はしろ」

 セフェランが俺の腕からネサラを抱きとり、ウルキが俺の腹に巻いたさらしを解いて俺の傷を止血する。
 もちろん痛いが、そんなことよりも今はネサラだ!

「セフェラン様、その杖は……?」

 泣き崩れたローラの肩を抱いていたキルロイの問い掛けに、セフェランはただ少し微笑む。
 そして、離れねえリュシオンやリアーネを下がらせて地面にネサラを横たえ、その上に古びた杖を掲げた。詠唱が始まる。
 長い、長い詠唱だった。

「ミカヤ?」

 サザを振り切ったミカヤがそばに座り、手をかざした。「親無し」の印のある方だ。その手に宿る水色を帯びた淡い金色の光は、鷺の持つ癒しの魔力だった。

「ミカヤ、こんな深い傷を引き受けたら…!」
「鷺の力が必要なの。わたしは謡えない。でも…」

 立ち上がったラフィエルの唇から唄がこぼれ出る。この呪歌には何度も助けられた。鷺の持つ最高の癒しの力……「快癒」の呪歌だった。
 死に行く者には効かないと言われるその唄を、なぜ今ここでラフィエルが謡い出したのかはわからねえ。
 だが、確かにその魔力はゆっくりとだが、ネサラの中に染みこんで行く。
 リュシオンも立ち上がった。

「父上…!」
「リュシオン、私にはもう呪歌は謡えない。それが禁呪の代償だ」

 力なく笑ったロライゼ様に、リュシオンは流れ落ちる涙を拭いもせずに言った。

「私は、鷺として生まれて良かったと思ったことは一度もありません。いつでもこの弱い身体が疎ましかった。私は自分の身を自分で守りたい。ティバーンもネサラも、いつでも我が身を盾として私を守ってくれた。それなのに私はただ、その背中を見ることしかできないで……」

 黙って息子の告白を聞くロライゼ様の目は穏やかだ。だが、まるで眩しいものを見るように微笑み、自らの手から王者の腕輪を外す。

「鷺であることから逃げることはできません。それでも、これからも鷺の身である自分の身体を疎む私の気持ちは変わらないでしょう。父上。私は守られたいのではない。いつだってティバーンを…ネサラを、守りたかったのです」
「そうだね。鷺は変わらなくてはならない」
「父さま……兄さま?」

 リアーネが大きな若葉色の目を向けた先で、ロライゼ様の手からゆっくりと浮かび上がった王者の腕輪が輝き、導かれるようにリュシオンの腕に収まった。

「私の全てを伝えよう。鷺王…リュシオン」

 リュシオンが化身する。優雅に舞い上がった白鷺が友の傍らに降り立ち、長い首をもたげて謡い始めた。
 リュシオンには謡えなかったはずの、「快癒」の呪歌だ。王の印を受け取り、魔力が増した力強いリュシオンの旋律が俺たちの魂までも震わせた。

「わたし…わたしも……」
「リアーネ。おまえにはまだ無理だよ。『快癒』は人を癒す代わりにとてつもない魔力を必要とする。おまえの喉では焼け爛れてしまうだろう。二度と謡えなくなるかも知れない」
「わたしの声は……ネサラがおぼえてくれてたらいいの」

 微笑んで立ち上がったリアーネの唇からも同じ唄が溢れた。ロライゼ様が止めるんだ。さぞ負担だろうに、リアーネの歌声は鮮やかに、まるでこの地に春を導く風のように暖かな魔力を紡いで広がって行く。
 セフェランの詠唱が続く。
 長い詠唱が紡ぎ出す魔力がネサラを包み、ゆっくりとその身体が浮かび上がった。
 引き裂かれた黒衣の隙間から覗く凄まじい傷に光が集まる。あちこち傷ついて、隙間から淡い色の地肌が見えていた黒い翼にもだ。
 まさか……本当に、帰ってくるのか? ネサラが…!?
 俺はネサラに手を伸ばせなかった。
 アイクやスクリミルと同じだ。呆然とこの光景を見守るしかできねえ。

「王!」

 それでもたまらず伸ばした手が、凄まじい魔力に弾かれる。
 爪ごと指先が割れた。ウルキが慌てて俺の手を取り、ローラが杖を使ってくれたが、俺の目はネサラから離せなかった。
 目の奥がガンガンと痛む。俺も血を流しすぎた。
 だが、両の足にも翼にもしっかりと力を入れて俺は立っていた。
 帰って来れるもんなら、帰って来い、ネサラ…!
 俺は、まだおまえになにも伝えてねえんだ!

「あ…雲が……」

 ジルが空を見上げる。空から降りる光の筋が増えた。ゆっくりと太陽が顔を覗かせる。
 そしてセフェランの長い詠唱が終わった時、掲げていた杖の中心からひびが入り、光が溢れた。

「お嬢様!」

 喉を押さえたリアーネが倒れそうになってニアルチが支える。それでも謡おうとするリアーネを必死になだめながら、ニアルチが叫んだ。
 砕けてゆっくりと崩れ落ちる杖の向こうで微笑むセフェランを見上げながら。

「どうか…どうかぼっちゃまをお救いくだされ! 引き換えになるものが必要ならば、このおいぼれの命を差し上げます! ですから、どうかぼっちゃまを…!!」

 ネサラは望まねえ、か。――確かにな。
 だが………。
 化身を解いたリュシオンがゆっくりとネサラに触れる。ラフィエルも微笑み、愛おしそうに蒼い髪を撫でた。

「ティバーン……」

 夢を見てるようなリュシオンの表情に、俺はなんて声をかけようか迷った。ネサラから浮力が消えて、ゆっくりと降りてくる。
 引き寄せられるようにその身体を受け止めると、ずっしりとした重みが両腕に掛かった。
 ……暖かい。命の重みだ。
 鼓動を確かめるまでもねえ。抱きしめたネサラの胸がゆっくりと上下していた。安らかな呼吸の証だった。

「い、生き返ったのか!? 一体どうやって…!!」
「こら、スクリミル! 感動の再会が台無しになるからちょっと黙ってろって!!」

 いつまでもこうして抱いていたいが、まずはじいさんに返してやらねえとな。
 滂沱の涙を流して膝をついたニアルチの両腕にそっとネサラを抱かせてやると、リアーネも酷く掠れた声で名を呼びながらネサラの手を自分の頬に押し当てて泣いた。

「い、いかん! このままではぼっちゃまに風邪をひかせてしまう!」

 ただ泣いて終らない辺りがさすがだぜ。背負っていた荷袋を解いて厚手の外套を取り出すと、ニアルチはまるで赤ん坊にするようにネサラを包んで撫でる。
 老いたその手に込められた愛情の深さに、なぜか俺の方が泣きたいほど暖かい気持ちになった。

「リュシオン」

 倒れたのはリュシオンだ。軽い身体を受け止めると、リュシオンの方が死にそうに肩で息をしながらへたり込み、だが視線だけは変わらず強い輝きで俺を見上げて言ったのだった。

「ティバーン……。ネサラを返してもらえるなら、私の力なんていらない。なくなったっていい。本当は…命だっていらないんです……」
「わかってる。だが、おまえが死んだらこいつは泣くぞ?」
「ええ……。だから、死にません。私はあなたより、ネサラより長く生きる。ちゃんと歳をとって、子どもなんていてもいなくてもいい。きっと気難しい年寄りになるでしょうネサラと笑い合って、時にはケンカをしながら…私はそばにいます。いつかネサラが本当に逝く時は、きっと安らかに……リアーネのように『喜樂』の唄で見送ってやりたい」
「そうか」

 リュシオンの目からも涙が落ちる。力尽きたんだろう。ゆっくりと目を閉じながら、リュシオンは小さな声で囁くように続けた。

「はい。ネサラは本当は…今でも暗がりが恐いんです……。だから…見えなくなった時に恐くないよう、『喜樂』の唄で……。私は王になります。外交で…ネサラだけが苦労をしないように……」

 友だちだから。
 そう言う前に気を失ったリュシオンをウルキに任せ、俺はキルロイに杖を使われながらネサラに寄りそうリアーネのそばに座った。
 なによりも血を恐れる鷺が、一瞬の怯みもなく口移しにネサラを苦しめる血を取り去った。
 白いその身は今もあちこちが血まみれだ。だが、美しい。
 これほど激しく自分を愛する女を突き放せるはずがねえ。
 時間はかかるだろう。だがきっと、ネサラはリアーネの想いを受け入れる。
 俺も望んでいたはずなのにな。勝手なもんだ。今は少しそれが苦い。
 俺の気持ちが伝わったんだろう。リアーネが若葉色の目を上げて俺を見た。
 そして微笑んだ。本当にうれしそうに。
 ったく、女ってのは強いぜ。

「セフェラン殿……。その杖は?」

 そう言えば、そうだな。セフェランに尋ねたのはロライゼ様だ。ローラとキルロイはもちろん、セネリオも気になるんだろう。泣き笑いするガトリーのそばから立ち上がってこっちの様子を伺う。

「これも、前時代の遺物ですよ。女神さえ生まれる前の……太古の昔、『バルキリー』、あるいは『オーム』と呼ばれた、命の理を歪める奇跡の杖です」
「奇跡の……」
「そうです。たった一度だけしか使えません。女神はおっしゃった。この杖は永遠に封じなければならない。決して使うことがあってはならないと……。そのために杖の眠る遺跡の上に塔を建てました。今では月と星の神殿になっていますが」

 そこまで言ったセフェランはニアルチに抱かれたまま眠るネサラの頬に手をそえ、ラフィエルによく似た幼い子を慈しむような目をして続けた。
 その口元に、珍しく悪戯っぽい表情を浮かべながら。

「女神の言いつけには背きましたが、どの途これで永遠にこの杖を使うことはできなくなりました。鴉王の償いも終っていませんし、結果としては悪くはないでしょう?」

 なんだそりゃ。食えない男だぜ。

「悪くないどころか、めでたい話ではないか! 生きていることが一番大事なのだからな!」
「そりゃそうだよ。死んじまったらなんにもならねえもんな!」

 呆れた俺とは対照的に、まずスクリミル、そしてトパックが笑い出す。ほかの連中もだ。フォルカはトパックがしがみついて大泣きされた時につけられたらしい涙だか鼻水だかを拭きながら、珍しく肩を竦めていた。
 笑っていいものかとは思うが……まあ、いいんだろうな。本人も笑ってることだしよ。

「どうでもいいが、終ったなら帰りたいんだがな。傷の手当がしたい。俺はあんたらみてえに頑丈じゃないんだぜ」

 そんな中、笑わなかった数少ねぇ顔ぶれの一人、シノンは舌打ちしてそんなことを言っていた。

「あ、じゃあシノンさん、おれもいっしょに帰ります! …って、お、お、折れてるじゃないっすかぁ〜!!」
「やかましい。ただでさえ痛ぇのに耳元でわめくな」
「シノン……」

 仰天して騒ぎ出したガトリーの後ろからシノンを見たアイクの顔色が変わる。そこでやっと俺もまともにシノンを振り返った。
 いや、俺自身も怪我をしていたし、ネサラのことで頭がいっぱいだったんでな。

「大丈夫…じゃなさそうだな」
「腕一本失くしたところで死にはしねえよ。まあ、千切れちゃいねえからどうにかなるだろ」
「礼は言いませんよ」
「へッ、てめえがそんなタマかよ」

 ライブの杖をかざすセネリオと軽口を叩き合っているが、服の上からでもはっきりとわかるほど、シノンの腕は変形しちまっていた。
 可哀想だが、このまま治療すると腕がおかしくなるからな。

「お、おい! おまえらなにを……やめろッ!!」

 情けない顔をしたガトリーと目を見交わすと、すぐに察したんだな。ガトリーが後ろからシノンを羽交い絞めにして、俺はシノンの両脚に跨るように座って変形しちまった左腕を掴む。

「思い切りよく引いてください。でなければ意味がありません」
「て、てめッ、この…! お、覚えてろよッ!!」
「忘れませんよ。僕は記憶力には自信がありますから」
「シノンさん、ホント、ごめんなさいっす!」

 ベオクってのは傷に関しちゃ根性なしが多いと思っていたが、やっぱり傭兵は違うんだな。
 アイクは射殺されそうな目で睨まれながらシノンの口に手巾を突っ込んでいた。

「ッ!!」

 セネリオの指示に従って一息に腕を引くと、音を立てて関節の歪みが戻り、骨の位置が戻る。皮膚を突き破って骨がむき出しになっていた部分には、アイクが容赦なく火酒と呼ばれる強烈な酒を惜しげもなく掛けていた。
 痛みは…想像したくねえな。
 悲鳴も上げられねえシノンは失神もせず、ただ歯を食いしばって強張っていただけだ。
 終ってからも声もねえ。口に突っ込まれた手巾を吐き捨てるように取り出し、そのまま俯いて脂汗をぼたぼたと落としていた。

「ジル、すまないがネヴァサまでシノンさんを乗せてもらってもいいかな? できたらキルロイもウルキといっしょに帰ってもらえたら有難いんだけど」
「ええ。私はもちろんいいわ。でも、シノンはウルキさんにお願いした方がいいと思う。あなたも戻った方がいい。あなたはを運ぶのはこの子でもないと無理だしね。それにキルロイはリワープの杖を使えるんだから」
「や、でも…」
「私もそう思う。王……」
「そうしてやれ。俺もすぐ戻る」

 ガトリーも平気そうな顔をしているが、顔色が悪い。自慢の鎧もネサラにやられた胸部に亀裂が入り、中から血の匂いが漏れていた。本格的に倒れる前にそうした方がいいだろう。

「じゃあ、アイク……」
「わかってる。キルロイ、二人を頼む。それからヤナフの様子もな」
「もちろん。それではティバーン様、お先に失礼いたします」
「おう。本当に助かったぜ。ありがとうよ」

 はにかんだキルロイがリワープの杖を使うの見送ると、俺はぐったりしたシノンに手を貸してウルキの背中に乗せた。ウルキもまだ傷が治り切ってねえが、こんな場合だ。
 なにがなんでも無事に運ぼうという気持ちが鋭い眼差しから見て取れて、俺は黒っぽい翼を撫でて促した。ガトリーも心配そうにジルの騎竜に乗って遠ざかる二人を見上げる。

「では、私も先に行かせていただきます」
「ジル、あいつらを頼む」
「はい」

 アイクと俺に見送られてジルとガトリーが飛び立ち、フォルカも立ち上がった。

「おまえも帰るのか?」
「………」
「待てよ!」

 俺の問い掛けに背を向けたフォルカにサザが追いすがるが、来た時と同じだな。フォルカの姿はまた虚空に掻き消えた。
 便利は便利だが、あいつみてえなのを飼うあの道化文官は本当に信用ならねえぜ。つくづく、ネサラが生きていてくれてよかったと思う。
 俺にあんな腹芸ばかりの相手と渡り合えってのが、そもそもの間違いだろ。

「くそ…!」
「サザ、こっち来いよ。ミカヤが呼んでる」
「………」

 ガキどもにはガキどもなりに複雑な事情があるんだろうよ。珍しく遠慮がちなトパックが杖でサザの傷を癒して、サザはため息をついて巫女の元へ行った。
 それから俺を見上げたのはアイクだ。

「鳥翼王……」
「すまねえが、ネサラとリュシオンたちのそばについていてやってくれねえか?」
「それは構わないが、いいのか?」

 アイクが言いたいことはわかってる。ネサラが目を覚ました時に、そばにいなくてもいいのかってことだ。
 そりゃ、ついていたいさ。だが……。

「巫女。行くぜ」
「………はい」

 俺の仕事は、この渓谷を鎮めることだからな。
 それは、あの無残な騎士たちの遺体をどうするかってのも含まれてる。

「ミカヤ…私もいっしょに行きます」
「ありがとう、ローラ。ごめんなさい…」
「謝らないで。いっしょに戦ったのは私も同じだもの。だから、いっしょに祈りましょう。そして考えましょう。私たちになにができるかを」
「ええ。そう…そうね」

 ローラに寄り添われて青い顔をして立ち上がった巫女に手を貸し、続けて立ち上がったスクリミルとライを伴って、俺は最も悲惨な状態の谷底に向かうことにした。

「ところで鳥翼王、まだ腹の傷が塞がっていないのではないか?」
「まあな」
「おいおい、まさか臓物を撒き散らしはせんだろうな!?」

 仰天したスクリミルの言い草に巫女とローラが短い悲鳴を上げて俺を見る。いやいや、もう杖はいいんだよ。

「ウルキがギチギチに縛ってあるから出てこねえよ。あいつの一撃で持ってかれた分だ。惜しくはねえ」
「うむ、それはそうか。俺にもわかるぞ! 俺も鴉王とはやり合いたかったが、場所が悪かった。もっとも、場所を選んでもあの鴉王を凌ぎ切れるか、わからんほどに強かったがな。わはは!」
「うう、やっぱり鷹と獅子って似てる気がする……」

 俺とスクリミルの言い草にライは耳も尻尾もへたらせて頭を抱えたが、本音なんだからしょうがねえよ。
 だが巫女とローラは耐えられなかったのか、それぞれ先を争うように俺に杖をかざしてリカバーを掛けた。

「気をつけて。私ももう少しここについていますから」
「あんたがいれば安心だ。頼んだぜ」
「はい」

 目が合ったセフェランが穏やかに微笑む。その傍らで、ネサラを見守っていたラフィエルが立ち上がった。

「……行くのだね?」
「はい、父上。この通りリュシオンは疲れていますし、私が手伝いたいと思います」

 ロライゼ様の問い掛けに頷いたのはラフィエルだ。そうか。倒れたリュシオンの代わりに渓谷にまだ「負」の気が残っていたら浄化してくれるつもりなんだな。

「いいのか? おまえには辛いかも知れんぞ」
「私にとっての一番辛い出来事は、もう過去のことですよ。大切な友であるあなたと、ミカヤの手伝いをさせてください」
「いい面構えだ。ニケが見たら惚れ直すだろうよ」
「そうなるとうれしいですが……ふふ、どうでしょうか」

 笑ったラフィエルに手を差し出すと、ほっそりとした手が母親のような優しさでぽんぽんと俺の手を叩く。それから先に歩き出した。
 ネサラ……待ってろよ。おまえは俺が連れて帰るからな。
 白鷺たちに囲まれ、じいやのニアルチの腕に抱かれて穏やかに眠るネサラを振り返って深い息をつくと、俺は巫女たちを連れ、多くの将兵が犠牲となったあの谷底を目指した。





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